社会学評論
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39 巻, 1 号
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  • その歴史的説明と一般モデル
    鵜飼 孝造
    1988 年 39 巻 1 号 p. 2-16
    発行日: 1988/06/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    従来、社会運動の形成を説明する上で、生産手段の所有を軸とする階級構成や職業・地位などを指標とする社会的資源の配分様式は、マクロな構造的要因として重視されてきた。他方、実際の運動の発生メカニズムは階級意識や相対的剥奪の高まりといった心理的要因を中心に論じられてきている。それに対し、近年台頭してきた資源動員アプローチは、動員・組織・戦術などいわばメゾ・レベルでの分析に有効性を発揮している。
    本稿の目的は、よく指摘されるように、資源動員アプローチが運動を取り巻くマクロな状況を射程に入れていない、あるいはその費用・便益にもとづく動機仮説は現実の運動参加を説明するのに不適切であるとの批判を受けて、それが運動の場を中心に理論化を図ることによって逆に照射している構造的要因や心理的要因は何なのかを明らかにすることにある。その糸口は社会史的研究やミクロな相互行為論の知見に求められるだろう。
    社会運動の一般的な説明枠組の問題とは別に、本稿のもうひとつの論点は、一九六〇年代後半から西ヨーロッパ・アメリカ・日本を中心に起こっているいわゆる≪新しい社会運動≫に対して、資源動員アプローチはどのように位置づけられるかという問題である。ここでは資源動員アプローチが、公民権運動やフェミニズムの高揚を背景として生まれたことをふまえつつ、そのいくつかの特性を説明するのに有効であることを示したい。
  • 社会学的オートノミーの原理のために
    馬場 靖雄
    1988 年 39 巻 1 号 p. 17-31
    発行日: 1988/06/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    従来「解釈学のシステム理論版」だと考えられてきたルーマン理論は、自己言及概念の導入によって大きく変貌した。しかもそれは理論の内容においてのみではない。ルーマン理論は閉じられた自己同一的な体系から、常に自己差異化する運動体へと変化したのである。それゆえ本稿のタイトルは、第一にルーマンは変ったという、第二にしかも今なお変り続けているのだという、二重の含意をもつことになる。この二重の変貌とその帰結を粗描することが本稿の目的である。その帰結とは、社会学の営為全体に対する新しい視角に他ならない。従来「パラダイム」について論じられる時、また「グランド・セオリー」に対して「中範囲理論」の重要性が主張される (あるいは、その逆) 時、一般理論/実証研究というヒエラルヒーがまったく自明視されてきた。理論/実証の往復運動という主張も、このヒエラルヒーを前提としたものであった。これらに代って、理論と実証が相互に反転し続ける循環運動が登場する。また、社会学と社会の関係も、理論とその対象という単純な関係としてではなく、相互に造り/造られるというループのなかで把握されることになる。ルーマンの「システム理論のパラダイム転換」がもたらすのは、新たな内容のパラダイムではなく、パラダイムについて語るのを可能にする思考前提の転換である。それはいわば、パラダイム転換のパラダイム転換なのだ。
  • 山越 正彦
    1988 年 39 巻 1 号 p. 32-44
    発行日: 1988/06/30
    公開日: 2010/05/07
    ジャーナル フリー
    イデオロギーが同一性思考の普遍的形態であるとしたら、イデオロギーにどんな普遍概念を対置しても無意味であろう。さらに、学問のモダニズムが「同一性への意志」といわれ、ポスト・モダニズムが「差異性への欲望」といえるにしても、いずれにせよそれらは〈資本〉の自己増殖の模像なのであり、資本主義という球体に縁どられた表象にほかならない。しからば、イデオロギー・クリティークはマテリアルな「非同一性」のざらざらとした抵抗にあくまで固執する、球体破砕の活動へと旋回せねばならない。
  • 自己呈示と自己変容
    桐田 克利
    1988 年 39 巻 1 号 p. 45-58
    発行日: 1988/06/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
    自己概念は、ミードとゴフマンに代表されるように、ドラマ的含意をもつ。それは自己が呈示され変容されるということに求めることができる。自己概念をめぐる社会学的論争は、多分にこのようなドラマとしての自己概念の軽視を孕んでいる。自己概念の新たな展開のためには、それが本質的にドラマとしてとらえられる、ということを明らかにしなければならない。
    ドラマとしての自己概念は自己が状況的であるということを前提としており、個人の経験ないし行為の生じる文脈に自己を位置づける。このような自己はMeとIという両側面を合わせもつ。この概念はまた、自己を機能としてとらえるものでもある。機能としての自己は、その多元性を特徴としており、機能的多元性の異なる呈示形態、異なる変容形態を生じさせる。
    呈示された自己は、関わり合う他者に承認されることによって呈示する主体の公的イメージとなり、主体あるいは他者によって変容の可能性にさらされる。呈示主体は公的イメージからの距離的変容にも従事しようとする。そのうえ、彼はそれらの有形的な変容の背後に無数の無形の変容を行う者でもある。このような視点からとらえられた自己概念は、状況的拘束のもとに自己が呈示され、その呈示に基づいてさまざまな変容を被る人間像を示すものにほかならない。
  • 青井 和夫, 森岡 清美
    1988 年 39 巻 1 号 p. 59-65
    発行日: 1988/06/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
  • 酒井 恵真
    1988 年 39 巻 1 号 p. 66-67
    発行日: 1988/06/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
  • --新しい社会科学をめざして--
    布施 鉄治
    1988 年 39 巻 1 号 p. 68-69
    発行日: 1988/06/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
  • 三溝 信
    1988 年 39 巻 1 号 p. 69-71
    発行日: 1988/06/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
  • 富永 茂樹
    1988 年 39 巻 1 号 p. 71-72
    発行日: 1988/06/30
    公開日: 2009/11/11
    ジャーナル フリー
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