社会学評論
Online ISSN : 1884-2755
Print ISSN : 0021-5414
ISSN-L : 0021-5414
48 巻, 3 号
選択された号の論文の15件中1~15を表示しています
  • 近世西欧における法の合理化過程を中心に
    橋本 直人
    1997 年48 巻3 号 p. 300-316
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    M.ウェーバーの法社会学における〈形式性〉概念の曖昧さについてはすでに様々に論じられてきた。特に, ウェーバーが一方で近代法の特性を〈計算可能性=形式性=論理性〉と捉える一方で, 近代法における論理性と計算可能性との「乖離」を指摘している, という矛盾は議論の焦点のひとつであった。とはいえ, 多くの場合この問題は概念区分の問題かウェーバーの「誤謬」として扱われてきた.こうした議論に対し本稿では, むしろこの矛盾ないし概念上のゆらぎこそがウェーバーにおける法の〈形式性〉にとって本質的であることを明らかにしたい。
    ウェーバーの記述からすると, 近世西欧において市民層が要求した法の〈形式性=計算可能性〉とは, 利害関係者の闘争, あるいは彼らの関与する諒解関係間の競合に際して法が各当事者から「乖離」し, 闘争・競合の結果をそのまま「合法化」することを意味する。そして, 法を利害関係者の日常的要求から「解放」する法の〈形式性=理論性〉はその意味で〈形式性=計算可能〉なのである.つまり, 法の〈形式性=計算可能性〉と〈形式性=理論性〉とは, 乖離ゆえに適合的, という逆説的な関係にあり, この逆説性こそが法の〈形式性〉の根幹なのである.こうした認識からは, 法をめぐる社会的諸勢力の競合という, ウェーバーの合理化論や近代社会認識についてのより多元的・力動的な解釈の可能性が拓かれるものと考えられる。
  • 千葉 隆之
    1997 年48 巻3 号 p. 317-333
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    経済社会学は, これまで多くの場合, 社会システム理論の枠組みや非経済的動機づけの仮定に基づいて, 経済現象への社会学独自の理解や説明を提供してきた。本稿は, これらとは異なり, 純粋に経済的な利得動機に基づいた行為においても, 不確実性が問題となる状況では, 経済現象の中核である市場取引の様態が, 社会学的要因に依らなければ説明できないことを示す。そのための事例として, 下請関係や産業地域の取引関係における信頼の働きについて検討する。
  • 学歴・初職に対する影響の計量分析
    林 拓也
    1997 年48 巻3 号 p. 334-349
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    本稿では, 現代日本において, 地域における機会の格差がどの程度個人の地位達成に影響を及ぼしているのかを分析する。データは, 1995年に実施されたSSM全国調査における25~59歳男性サンプルを用いた。方法上のアプローチとしては, (1) 地域区分に関して, 機会の多寡を反映するように, 六大都市/大都市周辺都市/地方中核都市/その他地方都市/村・町という区分を用い, (2) 地域移動の可能性も考慮に入れ, 前住地による格差を対象とし, (3) 地域移動者と非移動者とを比較する視点から分析を行った。学歴達成については, 地域格差が特に非移動者において顕著であり, 大都市およびその周辺都市の出身者が高い学歴を示す。また, 地域移動は高等学歴へのアクセス手段であることが示唆される。その変動を見るために, 出生コーホート別に分析を行った結果, 若いコーホートにおいてその格差が再び拡大していた。初職達成においては, 学歴達成の場合と異なった形の地域差が見られ, 職業威信スコアで見た場合, 教育地が大都市の者が最も低いスコア, 地方都市の者が最も高いスコアを示していた。ただし, これは地域における機会ではなく, 出身階層や教育機関の特性など他の要因によるものである。
  • 寺田 良一
    1997 年48 巻3 号 p. 350-355
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 長谷川 公一
    1997 年48 巻3 号 p. 356-360
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 加藤 秀一
    1997 年48 巻3 号 p. 361-370
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    踏み込んだ検討に移る前に, まず本書の内容を概観しておこう。『性愛論』は, 先にその一部を引用した短い序章を別とすれば, 全部で6つの章から成っている (以下, 「」内の部分は基本的に引用であり, 〈 〉の部分は, 著者の主張を評者の解釈を経て要約したことを示す。短い引用箇所については, あまりにも煩瑣になることを避けるため, 当該ページの挙示は省略する) 。
    第1章「猥褻論」と第3章「性関係論」は, もともとひとつながりの論文として書かれたものであり, 内容的に連続している。ここでは〈社会空間は性愛現象と非性愛現象とに分離している〉という社会存立の「公理」が解説されている。中にはさまれた第2章「性別論」では, 「規範としての性別」の成り立ちが原理的に説明されている。以上3つの章は, 性愛という現象に関する著者の見方の最も基礎的な部分を述べた, 原理論的な部分である。
    これに対し, 第4章「性愛倫理」ではキリスト教における性愛観の変遷が簡単に跡づけられ, 第5章「性愛倫理の模造」は, 戦後日本における性愛関係書のベストセラーの内容分析にあてられている。これら二つの章は前半で示された原理論的視点から歴史的事象を分析する応用編といえるだろう。さらに一書の締めくくりとして, 「性愛世界の彼岸」と名づけられた終章が置かれている。
    これら全編にわたって評者が疑問としたい点は多いが, 紙数の制約から, 本稿では本書の前半部分で展開された原理論的内容に視野を限定して, その中心線をたどりなおしてみることにしたい。
    上に記したように, 著者が提示する最も基本的な認識枠は, 〈性愛領域/非性愛領域〉という対である。これが「人間社会」に普遍的に妥当する分析枠として提示される。他方, 「性愛」の領域が限局されると同時に, その外部では, 「言語と権力」という他の媒介の流通性が高まる, とされる。次の箇所は, 本書のこのような理論的要諦を示しているだろう。
    「血縁に基づく親族秩序は, 事実としての性交渉や性愛関係の広がりを, ある一定の正当化手続によって婚姻とみなされるようになった配偶関係のなかに封じこめる。そしてまた逆に, そうした婚姻を間に挟んで水平に拡がる人びとの相互関係を, 性愛への志向を脱色され言語的・権力的な作用へと純化されたものとする。こうして社会空間は, 全域的な一種の透明性を獲得する。この透明性は, より遠隔に対してはたらく普遍的な作用力, すなわち言語や権力のはたらきを, 当該空間の端から端にまで容易に到達できるようなものとする (111頁) 。
    ここから直ちに二つの問題が生じる。第一に「性愛領域」の内容 (「非性愛領域」の内容に比重が置かれないのは, 本書のテーマからして当然であるから, 本稿では問わない), 第二にそれと非性愛領域との関係づけである。大まかに言って著者は, 第一の問題に対してはLévi-Straussの提示した概念法を再構成することで答え, 第二の問題に対しては独自の分析を展開している。こうした意味で, 本書は Lévi-Straussの親族構造論における方法と理論を拡張して, 性現象一般の普遍的構造の記述をめざす企てである, と言えるだろう。本書そのもののなかにはその通りの表現はみられないが, その中心的なアイデアをより厳密に展開したといえる別の論考 (「親族・家族・社会シスデム-人類学的交換理論の論理とその拡張」, 『橋爪大三郎コレクションII 性空間論』勁草書房) がその傍証となるだろう。
    評者の疑問は, 先の二つの問題-相互に切り離せるものではないから, 二重の, とするべきか-の全域に関わっている。第一に, 「性愛領域」に直接的な身体関係としての「性交渉」から, 「家族~親族」といった社会制度までが含まれているが, それを「性愛」の名の下に一括りにすることへの疑問。評者の見解では, ここでは橋爪氏は, Lévi-Straussの誤謬を拡大再生産してしまっていると思う。これと関連して第二に, 橋爪氏は, 「性愛領域」に含まれた諸制度にすでに流通している権力作用をうまく理論に織り込むことができなくなってしまった。以下, これらの問題について検討していく。
  • 橋爪 大三郎
    1997 年48 巻3 号 p. 371-374
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    私の著書『性愛論』が『社会学評論』誌の書評論文対象書に取り上げられたこと, そして, 著者である私が, 書評論文に回答する機会を与えられたことに, まず感謝したい。この書評/回答のシステムは, 両者がうまく噛み合うならば, 読者にとっても学界にとっても有益であろう。
    さて, 加藤秀一氏の書評論文を一読した印象は, ここで書評されているのが果たして私の書物なのだろうか, という疑問であった。私はどんな批判でも歓迎するし, 根拠のある指摘には答えていきたい。しかし, 今回の加藤氏の書評に対しては, それは無理であると思った。それゆえ, 貴重な誌面を使った回答が, 私の書物が今回いかに書評されなかったか, という変則的な主旨のもの (それゆえ, 読者にとってあまり利益のないもの) になってしまったことをお許しねがいたい。
  • 大屋 幸恵
    1997 年48 巻3 号 p. 375-376
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 浅野 千恵
    1997 年48 巻3 号 p. 376-378
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 樫村 愛子
    1997 年48 巻3 号 p. 378-380
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 江頭 大蔵
    1997 年48 巻3 号 p. 382-384
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 栗田 宣義
    1997 年48 巻3 号 p. 384-386
    発行日: 1997/12/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 1997 年48 巻3 号 p. 387a
    発行日: 1997年
    公開日: 2010/01/29
    ジャーナル フリー
  • 1997 年48 巻3 号 p. 387b
    発行日: 1997年
    公開日: 2010/01/29
    ジャーナル フリー
  • 1997 年48 巻3 号 p. 387c
    発行日: 1997年
    公開日: 2010/01/29
    ジャーナル フリー
feedback
Top