本稿は, 構築主義に差し向けられたいくつかの批判を挺子にして, 構築主義が差別や抑圧を作り出している機制や表象に「抵抗」しようとし, 敢えて問いを封印/遮断しないとすれば, 《なぜ相対化するのか?》《なぜ認識の暴力性を批判するのか?》といった問いに対して, いかに応答することが可能であるのかを論考することを目的とする.
結果として, 構築主義は「本質主義/反本質主義」という構図や「実在論/反実在論」といった構図では争うことが困難であること, 全体性に対する超越的視線の解除が困難であることを描出した上で, 構築主義が先の難問に応答するのであれば, 差別や抑圧を作り出し続けている機制や表象によって「人間の本質」が仮構されることで《偶有性》が纂奪/奪取されてしまうからであり, 《なぜ偶有性が纂奪/奪取されてはならないか?》と問われれば, それによって自己の《他者性》が抑圧されるからであると回答をするだろうと指摘をした.
加えて, 私たちが《存在している》という事実は「呼びかけ」を通じた「アイデンティティの承認」によって作り出され続けているとすれば, 構築主義は「認識論主義」に陥るのではなく, むしろ《存在》によって《存在》自体を自己破壊する記述戦略こそを採用すべきであり, またその《現に・ともに存在している》という事実による応答可能性こそが, 自己の《他者性》が抑圧されてはならないことの根拠となるであろうと論考をした.しかしながら, 構築主義はこの《存在》を基盤にし, 超越的視線の解除を試みた上で, 「抵抗」の論理について語ることの意味についてはほとんど何も語り得ていない.ただし, このことは構築主義の困難ではなく, 社会学が根源的に抱えてきた難問なのである.
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