社会学評論
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56 巻 , 3 号
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  • 友枝 敏雄, 園田 茂人
    2005 年 56 巻 3 号 p. 566
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 友枝 敏雄, 山田 真茂留
    2005 年 56 巻 3 号 p. 567-584
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    今期社会学教育委員会では, 社会学教育の一環として社会学テキストのありようについて検討してきた.この論文は, この作業をもとにした今号の特集の序論をなすものである.多くの社会学テキストのなかで, とりわけ焦点をあてるのは, 初学者向けの, もしくは概論的なテキストである.
    まず戦後日本社会の変動を概観すると, そこには個人化の進行という一貫した趨勢が看取される一方で, 「第1の近代」と「第2の近代」との間にそれなりの断層があることが認められる.「第1の近代」においては産業化・都市化・核家族化等が中心であったのに対して, 「第2の近代」では政治領域における新保守主義・新自由主義の台頭, 経済領域における消費社会的状況の先鋭化, 文化領域におけるポストモダンな言語論的・記号論的転回等が顕著になってきたのである.
    そして社会学テキストも, この社会変動に応じて相貌を大きく変えることとなった.まず, 社会学テキストが扱うべき内容やその範囲が時代によって変わっていったという局面がある.またそれとともに, テキストの形式面でも大きな変化が生起した.かつてのテキストではオーソドックスな概念や理論の伝達が中心的であったわけだが, 今日では読者にとって読みやすい形でのパースペクティブの紹介が主流になってきているのである.社会学テキストは近年, 内容面・形式面の双方にわたって大きな変容をとげている.
  • 長谷川 公一
    2005 年 56 巻 3 号 p. 585-600
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    日本では, 学部教育や入門課程での教育は相対的に軽視され, 日本社会学会も, アメリカ社会学会などと異なって, 従来, 社会学の教授法や社会学テキストのあり方を積極的に論じてこなかった.筆者らの『ジェンダーの社会学』 (江原ほか1989) での経験を具体的に振り返り, 社会学テキストの企画・執筆にあたって求められる課題を私たちが当時どのように認識していたか, 本書の執筆をとおして学んだ, 成功する社会学テキストの条件などを考察する. (1) すぐれたリーダーシップとエディターシップ, (2) 編集コンセプトの明確化, (3) 既存の知識の解説・紹介と, 斬新な問題提起, 叙述のストーリー性の維持といった二律背反的な課題の克服, (4) 首尾一貫した明示的なパースペクティブが, テキストづくりの中心的なカギとなろう.私たちは, ジェンダー, 社会的・文化的に規定された性別というパースペクティブによって, 日常生活の自明性を打ち破り, 社会学的なものの見方, 社会学的な思考方法の魅力を生き生きと伝えることをめざした.家族・労働・政治・世界システムに至るまで, いかに広範な社会的現実がジェンダー・バイアスを帯びているかを示そうとした.
    国際的にみると, 母国語のテキストで専門的なレベルの社会学を学べること自体, 決して自明ではない, 先人に多くを負うた幸運な事態である.良質なテキストづくりをめざすこと, テキストのあり方を対象化することの意義はきわめて大きい.
  • 川崎 賢一, 藤村 正之
    2005 年 56 巻 3 号 p. 601-613
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は, 1992年11月に出版された『社会学の宇宙』 (川崎賢一・藤村正之 (共編), 恒星社厚生閣) という社会学テキストがどのように編集・出版されたのかを, 編者自身がその当時に考えていたことにできる限り忠実に, 紹介することである.その当時は, バブル経済崩壊直後の日本社会にあって, 社会学教育自体にも変革の波が押し寄せようとしていた.その波への1つの回答として, 編者たちが念頭に置いたのは, 大まかにいうと, 従来考えられていた〈教養としての社会学〉から, 〈普通に使える社会学〉あるいは〈DIY (Do It Yourself) の社会学〉へ, 大きくその方向を変えることを目指そうということであった.その意図がうまくいったかどうかはわからないが, 少なくとも, その後の社会学のテキストはさまざまな種類のテキストが出版されるようになった.その意味で, われわれのテキストが果たした何がしかの役割があったのではなかろうか.
  • 今田 高俊
    2005 年 56 巻 3 号 p. 614-625
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    社会学のテキストづくりの方法には, 概念と分析の基本的枠組みを紹介する, あるいは学説史にスポットライトをあてて社会学的思考法を紹介する, さらには研究法に焦点をあてて現実分析の方法を紹介する, などいくつかのタイプが考えられる.いずれの方法を採用するに際しても, 特定の学派にとらわれず, 初学者に対するサービス精神を持つことが, テキストづくりの作法である.本稿では, 社会学研究法に焦点をあてて編んだテキストを例に, テキスト制作の精神と作法について筆者の見解を述べる.そのポイントは, 禁欲精神とサービス精神を持ちつつ, 歴史縦断的かつ文化横断的な視点を取り込んだ知識の整理である.
  • 苅谷 剛彦
    2005 年 56 巻 3 号 p. 626-640
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    大学教育の場を通じて, 社会学の知識は, どのように教えられるのか.この論文では, 日米で使われている社会学入門の教科書の比較分析を通じて, 日本とアメリカにおける教育的知識としての社会学知の生産・再生産様式の特徴について分析を加える.問題設定の1節に続き, 2節では, 教科書の分析を通して, 社会学知がどのように編集され, 提示されているのかを比較する.その上で, 3節では, アメリカの大学教育の特徴を, 日本と比較しながら検討する.社会学知が伝達される当の舞台である大学の教室が, 日米でどのように異なるのか.それが, 教科書における知識の社会的構成にどのような影響を与えているのかを検討するのである.そこでは, 日本の大学教育の特徴が, 社会学知の標準化の程度を弱めていることが明らかとなる.4節では, これらの分析をふまえて, 日本における社会学知の生産と再生産が抱える課題について考察を加える.そこでは, アメリカに比べ社会学知のノーマル・サイエンス化が進んでいない日本において, 社会学知の方法知 (社会学的なものの見方の伝達) へのシフトが起きていることの問題性について考察する.
  • 李 国慶
    2005 年 56 巻 3 号 p. 641-649
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    社会主義革命後, 30年近く「禁しられた学問」であった中国の社会学にとって, 日本の社会学テキストはきわめて魅力的であった.筆者自身が学生当時に読んだ富永健一や鳥越皓之のテキストは, 前者は一般理論的視点から人類社会に共通するパターンを読み解こうとし, 後者は文化論的視点から日本社会に固有な特徴を見出そうとするなど, それぞれ異なる方法論をとっているものの, それぞれテキストとしての完成度は高い.
    日本の社会学は, 非西洋後発社会としての社会学の特徴をもっており, 欧米の社会学との対話と日本社会へのローカル化という力が強く働いている.これがテキストのあり方にも大きく反映されているのだが, 残念ながら, 中国を含むアジアとの対話はさほど多くない.日本発の概念がアジアの諸現象を説明できるようになることが, 強く望まれている.
  • 園田 茂人, 山田 真茂留, 米村 千代
    2005 年 56 巻 3 号 p. 650-663
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    1990年代に進行した, 読みやすさやわかりやすさを主眼においたテキストの激増を「テキスト革命」と表現した場合, この革命がどのような論理と力学によって生まれていったのかに関する経験的研究は不足している.社会学教育委員会は, 有斐閣で長くテキスト編集に携わってこられた方々を対象に聞き取りを行い, テキスト編集の歴史を振り返りながら, 「テキスト革命」が生まれたプロセスを明らかにしようとした.
    聞き取りの結果, (1) 「テキスト革命」は編集者の側のイニシアチブによって引き起こされたこと, (2) それ以前は概念教授型がメインであり, 1970年代から徐々にパースペクティヴ教授型へとシフトしつつあったこと, (3) 学生のテキスト購入意欲減退などの変化に対応するために「テキスト革命」が起こったこと, (4) 今後も教育現場や市場の要請に応える形でテキスト制作が進まざるを得ないこと, などが明らかになった.
  • 武田 尚子, 今野 裕昭
    2005 年 56 巻 3 号 p. 664-684
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    「社会学」が授業科目として設置されている大学 (短期大学を含む) と非大学教育施設における「社会学」テキストの使用・活用の状況を, 事例に基づいて報告する.
    非大学教育施設における「社会学」テキスト使用状況については, 3種類の教育施設 (看護専門学校, 社会福祉士養成校, 資格試験予備校) を対象に調査を実施した.調査の結果, 「社会学」テキストが使用されている環境は, 多様で単純な一般化はできないことがわかった.学習目的・学習範囲の明示の程度, 合格という目的にむけて合理化を担っている集団の性格, 専門職としての確立の時期など, 多様な社会的条件が, テキストの成立や使用のありかたに密接に関連している.
    大学における「社会学」テキストの使用状況については, インターネット公開の講義要項 (シラバス) を整理したが, 非常に多様にテキストを選択していることが判明した.1・2年生対象の社会学科目で比較的よく使われているテキストを使用している担当教員から, その活用状況について聞き取りを行った.教科書の受け止め方を含めた学生の性格, 教員の授業組み立ての方針, 教科書自体の特性の3要因が, 使用テキストの多様性に影響している.社会学の専門領域を次の世代に伝えるという大学本来の目的に見合った, 学生に使いやすい社会学テキストとその活用が望まれる。
  • 稲月 正, 木村 好美
    2005 年 56 巻 3 号 p. 685-709
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    本稿では, 日本社会学会社会学文献情報データベースをもとに, 戦後日本における社会学テキストの出版傾向をさぐったうえで, 主に1985年以降に発行されたテキストの類型化とレビューによって, 近年のテキストの特徴を浮かび上がらせた.
    その結果, 社会学テキストは, (1) 内容の面では, 1人の著者による体系的な理論・学説紹介タイプのものから, 社会学各領域での概説を含んだ多様なものになってきていること, (2) 形式の面では, 写真・図表やキーワードなどを配したつくりになってきていること, (3) 社会学的なものの見方 (パースペクティブ) を紹介するタイプのものが増えていることなどが明らかになった.
    一方, 1970年代のテキストでしばしば見られた「社会問題」や「社会計画」と「社会調査」や「社会指標」論とを関連づけて論じるというスタイルは, 近年姿を消してきている.パースペクティブ志向だけでは, 社会学教育は閉塞状況に陥ってしまう可能性がある.それを防ぐためには, パースペクティブの紹介に加え, 発見された「問題」を実証的な方法で社会的実践につなげてゆく道筋についても紹介してゆく必要があるだろう.
  • 前田 泰樹
    2005 年 56 巻 3 号 p. 710-726
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    社会学にとって人々の行為を記述するとはどのようなことだろうか.この問いは2つの論点に集約されてきた.すなわち「どのような記述をしても不完全さは残るのではないか」という記述の可能性への問いA, 「社会学的記述はメンバーによってなされる記述とどのような関係にあるべきか」という記述の身分に関わる問いBである (Schegloff 1988)
    本稿では, まず問いAに対し, 記述の懐疑論には採用し難い前提が含まれていることを論証する.さらに, その前提のもとで見落とされてきた論点として, 実践において行為を記述することは, それ自体, メンバーシップカテコリーへと動機を帰属させる活動でありうる, ということを示す.
    次に問いBに対し, H.サノクスたちによる社会学的記述の方針を検討する.まず, メンバーによる記述はそれ目体手続き上の特徴を備えている, ということを確認し, その実践の手続き上の特徴によって制約を受けつつ社会学的記述を行う, という方針を検討する.さらにその検討をふまえて実践の分析を行い, 行為を記述することが動機や責任の帰属といった活動であること, また, その活動が実践の編成にとって構成的であること, を例証する
    要約するならば, 行為を記述することは, それ自体, 動機や責任の帰属といった活動であり, その他の様々な実践的活動に埋め込まれている.本稿では, こうした実践の編成そのものを記述していく方針の概観を示す.
  • 浦野 茂
    2005 年 56 巻 3 号 p. 727-744
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    集合的記憶への社会学的分析は, 記憶が集合的アイデンティティ形成の資源とされてきた姿を明らかにすることに, その批判的意義があると考えられている.しかし他方で, こうした分析がその分析対象である現実における集合的アイデンティティ形成の動きへと寄与していってしまう事態が, 問題として指摘されてもいる.
    おそらくこうした事態は, 集合的記憶への社会学的分析の根本的前提そのものを再検討する必要性をつよく示唆しているものと考えられる.すなわち, 記憶というものをある形で概念化することを通じて成立している社会学のあり方それじたいを, 検討することが必要となるのである.そして本稿ではその検討の場を, 19世紀末から20世紀前半にかけてのW I トマスがアメリカ合衆国の移民問題と接触するなかで行った議論とその変容に求める.
    実際そこに確認できるのは, 当初は遣伝概念と結びついていた記憶概念が, この結合を支えていた状況の消失とともに, 文化や伝統, 言語を具体的拠り所として新たな概念化をこうむり, それと相即して生物学から明確に区別された狭義の社会学的議論が合衆国において自律していく過程である.この結果として現れるのは, 一方で合衆国への移民の強制的同化の動きに対して移民の記憶を根拠にして批判しつつ, 他方で同化のために移民の記憶へと積極的に働きかけていく技術的装置としての位置づけをも担っていく, 社会学の姿である.
  • 竹内 里欧
    2005 年 56 巻 3 号 p. 745-759
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    本稿では, 明治期から大正期の, 処世本, 礼儀作法書, 雑誌記事を資料に, 「西洋化」・「近代化」・「文明化」を象徴する人間像として機能した「紳士」という表象をめぐる言説を分析する.特に, 「紳士」を揶揄するレトリックや論じ方に注目し, その類型の整理を試みる.それにより, 近代日本において, 「西洋」, 「文明」の有していた力やそれへの対応について明らかにする.「紳士」をめぐる言説においては, 「真の紳士」に「似非紳士」を対置し, 「真の紳士」の視点から「似非紳士」を批判するレトリックが多くみられる.「西洋の真の紳士」という理念型から「日本の似非紳士」を揶揄する (=「『似非紳士』の構築」) のも, 「真の紳士」の対応物を「武士道」, 「江戸趣味」に見出すなど過去に理念型を求める (=「『真の紳士』の改編」) のも, どちらも, 現在の時空間ではないところにユートピアを設定しそこから批判することを通じて「現実」を構成するという論理構造を共有している.「真の紳士」という「理念」と「似非紳士」という「現実」を共に仮構するという理想的人間像への対応は, 抽象化された (それ故「武士道」などと等値可能になる) 「西洋」という目標に向かい邁進する日本の近代化の構造を反映している.それは, 近代化・西洋化の要請と, 「日本」のアイデンティティの連続性の創出・維持という, 当時の矛盾を含んだ2つの課題に対応する文化戦略であったことが透視される.
  • 高原 基彰
    2005 年 56 巻 3 号 p. 760-777
    発行日: 2005/12/31
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    本稿は, 若年労働力の流動化を, 「高付加価値産業化」や「第三次産業化」を中心とする, 石油危機後の日本の通商産業的な変動の中に位置づけて検証することを目的とする.こうした「脱工業化」は日本に限らず先進国一般で進んだものであるが, 日本の経験は, 1) 「会社主義」により外部/内部労働力が峻別され, 雇用の保護はすなわち内部労働力の保護を意味していたこと, 2) 労使の強い協調と財界主導の経済運営により, 石油危機の影響が他の先進国に比べて相対的に小さく, 英米でもたらしたような大企業の優位性を突き崩すに至らなかったこと, 3) この過程が不可避的に増大させる低賃金労働職種を移民ではなく自国民が担ったこと, という特徴を持つ.これらの特有な条件の上で, 現在主に経済的悪影響として語られている若年労働力の流動化は, 1970~80年代にかけて雇用安定と経済発展の両立をもたらすものとして肯定的に論じられてきた.その検討を通じ, 会社を主要な分配単位におく日本的福祉社会が, 「個人化」のリスクを若年層に負わせる形で存続してきたことを指摘する.その過程の検証を通じ, 日本的な特徴をもつ福祉社会の終焉を, 特定の弱者の生成としてではなく, 個人的なリスクの偏在的配分の問題として解釈する視座を提示する.
  • 2005 年 56 巻 3 号 p. 778
    発行日: 2005年
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
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