社会学評論
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58 巻, 1 号
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論文
  • 「ひきこもり」経験者支援施設でのフィールドワークから
    荻野 達史
    2007 年 58 巻 1 号 p. 2-20
    発行日: 2007/06/30
    公開日: 2010/03/25
    ジャーナル フリー
    「ひきこもり」支援施設とは,社会的諸活動から撤退していた青年たちが,自宅に限定されがちな生活から,主として就労・就学の場へと生活の場を広げていくことを援助する施設である.こうした施設は一種の「居場所」といえ,その機能は,住田(2004)によれば,利用者のきわめて否定的な自己定義を書き換え,行動上の変化をもたらすことにある.本稿は,ある支援施設におけるフィールドワークに基づき,施設利用者の自己アイデンティティが肯定的に変容する条件とその限界について分析したものであり,以下の諸点を明らかにした.
    ひきこもり経験者たちが,対人的な交流の場に定着し,肯定的な自己アイデンティティを構築する上で,施設の場が高度な相互行為儀礼を備えた空間であることは機能的である.しかし,その儀礼性の高さが,新たな自己物語のリアリティを支えるのに必要な「他者性」を支援空間から減退させるために,肯定的アイデンティティは強度を持ちえない.また,施設内の高度な儀礼性に自覚的になるほど,「外部社会」は対照的に,彼ら/彼女らの面目にもっぱら損傷を与える空間として思念されやすくなる.
    そして,その結果,外部社会へのアプローチは躊躇され,そのことがまた外部社会の一枚岩的に否定的なイメージを再生産させていることが予測される.ただし最後に,社会理論的視点からみた,相互行為儀礼の遂行能力自体の価値を確認し,本稿の含意を確認する.
  • 社会変動期に生きる若者のアイデンティティ構築とサブカルチャー実践の視点から
    池本 淳一
    2007 年 58 巻 1 号 p. 21-39
    発行日: 2007/06/30
    公開日: 2010/03/25
    ジャーナル フリー
    本論は日本におけるボクシング・サブカルチャーの考察を通じて,社会変動期に生きる若者のアイデンティティ構築のための実践や戦略を描き出すものである.本論は3つのボクシングジムへの2年半にわたる参与観察と,そのメンバー38名へのインタビューに基づいている.
    本論は以下の章から成り立つ.
    1) 入会.この章では,初めにステレオタイプ化された「ハングリー・ファイター」のイメージを否定し,続いてジムとメディア,コミュニティ,そして他のプロフェッショナル・スポーツとの関係を明らかにする.
    2) ジム通い.この章では,初めにジム会員に共通する性格,生活,そして生活上の問題を明らかにする.続いて,会員たちの規律的で勤勉なエートスに適合するジムのサブカルチャーを描く.
    3) ジムでの日々.この章では,会員たちのプロボクサーとしての社会化,職業的アイデンティティ,そして肉体的および精神的成長を描いていく.
    4) ジムを去る日.この章では,納得のいく引退条件を探ることを通して,ボクシングへの十分な「打ち込み」がメンバーに肯定的なアイデンティティを与えることを明らかにする.
    最後に,日常生活以外の場を選択し,そこでの肯定的アイデンティティの構築を果した会員たちのサブカルチャー実践から,社会変動期における労働観・人生観の再考のためのヒントをさぐる.
  • 戦前期・電車交通における〈狼雑さ〉と「公共性」
    田中 大介
    2007 年 58 巻 1 号 p. 40-56
    発行日: 2007/06/30
    公開日: 2010/03/25
    ジャーナル フリー
    本論文は,日露戦争前後の電車内における身体技法の歴史的生成を検討することによって,都市交通における公共性の諸様態を明らかにすることを目的としている.電車は明治後期に頻発した群集騒乱の現場になっていたが,同時期,法律から慣習のレベルまで,電車内の振る舞いに対する多様な規制や抑圧が形成された.これらの規制や抑圧は,身体の五感にいたる微細な部分におよんでいる.たとえば,聴覚,触覚,嗅覚などを刺激する所作が抑圧されるが,逆に視覚を「適切に」分散させ・誘導するような「通勤読書」や「車内広告」が普及している.つまり車内空間は「まなざしの体制」とでもよべる状況にあった.この「まなざしの体制」において設定された「適切/逸脱」の境界線を,乗客たちは微妙な視線のやりとりで密かに逸脱する異性間交流の実践を開発する.それは,電車内という身体の超近接状況で不可避に孕まれる猥雑さを抑圧し,男性/女性の関係を非対称化することで公的空間として維持しつつも,そうした抑圧や規制を逆に遊戯として楽しもうとする技法であった.
  • 先天性四肢障害児父母の会の1970/80年代
    堀 智久
    2007 年 58 巻 1 号 p. 57-75
    発行日: 2007/06/30
    公開日: 2010/03/25
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は,先天性四肢障害児父母の会の運動の展開を追い,そのなかで親たちが,いかにしてその主張の有り様を転換させてきたのかを明らかにすることである.
    先天性四肢障害児父母の会は,1975年に設立され,環境汚染がさまざまに問題にされた時代にあって,子どもの障害の原因究明を訴える運動として始められた.親たちは自らを被害者家族として位置づけ,一方では国・厚生省に催奇形性物質の特定・除去を求め,他方ではシンポジウムや写真展の活動を通じて,障害をもった子どもが二度と生まれないように社会啓発を展開していく.こうした訴えはそれ自体,親たちにとって,解放の効果をもつものであった.
    だが,1980年代に入ると,この原因究明の訴えは次第に行き詰まりを見せるようになる.とりわけ,障害者本人による原因究明活動への違和感の表明や「障害をもっていても不自由ではない」という主張は,この運動の質の転換を決定的なものにした.親たちはその後,親と子どもの当事者性の相違を認識し,親子の日常生活に立脚した活動を展開していく.子どもが主役のシンポジウムや子どもの生き生きとした姿の写真が並べられた写真展の活動を通じて,「障害をもった子どものいる暮らしはけっして不幸ではない」ということを示していく.
    本稿では,こうした先天性四肢障害児父母の会の運動の展開から,1970年代および80年代における運動の質の相違を明らかにしていく.
第5回日本社会学会奨励賞【著書の部】受賞者「自著を語る」
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