2017年の地教行法改正を契機に、学校運営協議会による教職員の任用意見規程に校長への事前意見聴取を条件付ける規則が増加した。もともと任用意見申出権限はコミュニティ・スクール導入の足枷になっていたが、法改正による導入の努力義務化は制度に対する「不要感」や任用意見に伴う「不安感」をある程度解消させることになり、その導入を促す役割を果たした。また、新規導入教委は他の教育施策にも積極的であり、教委職員等の制度への関心が高い傾向にあった。
本稿は学校運営協議会(CS)の展開に照射し、新公共経営(NPM)という潮流の中にこれを位置づけながら、日本におけるコミュニティ志向の参加型改革の政策分析を行う。具体的には、NPMの否定的側面を駆動させるメカニズムとされる脱政治化・責任化がCSの中でも見られ、それによって保護者・地域住民の体制内化が進んでいることを論じるとともに、これらの厳粛な認識とカウンターヘゲモニックな運用の必要性について論じる。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、「ゲマインシャフト」という言葉はドイツ社会の急速な近代化を相対化し省察するための重要な概念になっていった。本稿では、ドイツ新教育における「ゲマインシャフト」概念に着目し、主として田園教育舎運動においてゲマインシャフトの理念とそれに基づく実践がどのように展開したのかを解明することを通して、「共同体としての学校」の起源と史的展開の一端を描き出す。
教育の自由化論が高まる中、コミュニティとしての日本の学校をどう考えていけばよいのか。本論文では、経済産業省の「未来の教室」を典型とする、「小さな学校」論の基本的な発想(機能主義的再編と個人主義的再編)を明らかにし、論争点を整理する。特に、個別最適化に代表される学習の個別化・個性化、履修主義と修得主義、学年学級制等について検討を行う。その上で、日本の学校の共同性と公共性を再構築する視座を提起したい。
「コミュニティとしての学校」における市民性教育の典型とされるコミュニティを基盤とする市民性プロジェクトには、コミュニティの保守性や閉鎖性ゆえに、自由なプロジェクト活動が妨げられるという課題が指摘されている。その課題を克服しうる市民性教育の原理を、マキシン・グリーンから示唆をえて、コミュニティとプロジェクトの関係を逆転させ、プロジェクトを基盤とするコミュニティ構築による市民の育成として提起する。
どのようにして教師の「専門家コミュニティ」は形成されていくのであろうか。本稿ではマクロフリンらの知見から、教師の「専門家コミュニティ」を場や集団ではなく、学校改革のための、教師同士の相互作用を中核とした、教師の学習が生起する「文脈」とした。そして、学校改革を成し遂げる教師個人を起点とし、教師の学習に寄与する他者とのネットワーク構築から、「専門家コミュニティ」の形成過程とその形成要因を明らかにする。
学校コミュニティ論に伴うコミュニティの同一性/排他性の問題に関連し、「学びの共同体」論における「オーケストラ」などのメタファーを検討する。家庭や地域などへのノスタルジーのリスクはあるものの、ケアの関係が、「集団」を「関係」に、「差別」を「差異」に置き換えるなか、衝突や論争による傷を癒やし、孤立を回避し、「声」を聴き合う関係からさらに関係を編み直す学びの実現を、「学びの共同体」論は目指している。
本稿は、現代の地域学習を題材とし、社会教育における「共同学習」論の検討を手掛かりに、地域学習に内在する矛盾、ひいては地域と教育の緊張関係を克服する視座を「日常に埋め込まれた価値をくみかえる共同性」とおさえた。そして暮らしのなかで地域を学ぶ2つの事例の検討を通して、生活者の日常意識や価値基準を組み替えていく教育的条件としての共同性のありようについて検討した。
本稿は、1980年代に鹿児島県が掲げた郷土教育の理念および施策、教職員組合等による批判、当時の教育実践を検討した。行政側は「郷中教育」の歴史的伝統を参照し道徳的概念として「郷土教育」を打ち出した一方、組合側は、それ以前から民間教育運動が掲げた「地域に根ざす」教育、主権者育成の側面を重視した。しかし、授業実践のレベルではこの対立構造が必ずしも明確にはならず、その結果、郷土教育は反証不能な価値概念として機能することとなった。
本稿は、帝国大学文科大学心理学教授元良勇次郎が1890年前後に論じた心理学論、倫理学論、そして修身教育論における習慣論を明らかにするものである。この作業を通して、元良が「情」や「理」などの伝統的な儒学思想に加えてフェヒナー精神物理学、ヴント実験心理学、ダーウィンの進化論、カント倫理学の影響を受けながら、個人の経験と選択を基調とした習慣論を構築し、倫理学および修身教育論で展開したことを明らかにした。
本稿の目的は、精神分析家エリッヒ・フロムの宗教論を検討し、「教化」する権威的な「宗教」に抵抗しつつ、なおも「宗教的」に生きる方途を探った彼の思索の教育的含意を明らかにすることである。結論として、本稿は、フロムが「気づき」の「能力」を尊重することによって、「宗教的」に生きることを構想していた事実を闡明し、最後に、彼の理論が道徳教育の教科化の事例に先鋭化される現代教育の問題に対してもつ意義を明示する。
本稿では、中国近代における国語教育改革の新たな側面として、胡適の国語教育論を起点としながら「国語科」成立(1923年)へと至る歴史的過程について考察した。胡適は口語文学の確立を目指した文学革命の推進とともに、低学年から順に国語教育を実施していく重要性にも議論を展開した。胡適の「建設的文学革命論」を契機とした論壇における関心の高まりとも相まって、それらの議論は「国語」を用いた教科書編纂の決定や1922年新学制にともなう「国語科」の成立へと結実していったのである。
本稿はしんどい家庭の子どもの学校経験を、中学3年間の友人関係に着目して描くことを通じて、排除する者と排除される者の間の相互作用に迫る関係論的展開を試みるものである。事例を通じて、しんどい家庭の子どもを包摂しようとする友人たちの働きが、時間の経過を経て排除へと向かってしまう「好意の反作用」があることが明らかになる。友人関係の中で生起する学校特有の排除/包摂を取り巻く困難を十分考慮に入れなければ、しんどい家庭の子どもの包摂は難しくなることを提起した。