テクノロジーの発展に伴い、「フェイクニュース」と呼ばれる偽情報が世界的な課題となり、「ポスト真実」時代と呼ばれるようになった。この時代には批判的思考能力を持った市民形成をめざすデジタル・シティズンシップ教育の議論が不可欠である。本稿はデジタル・シティズンシップと深い関係を持つメディアリテラシー研究を参照しつつ、デジタル監視社会としてのディストピアを乗り越えるための教育学の可能性を検討する。
本稿では、アメリカ哲学者S・カベルの「道徳的完成主義」という自己完成の思想に依拠し、「希望の政治」を提唱する。私たちが希望を抱くことは、民主主義にとって不可欠である意味で、従来の党派政治とは異なる実存的な政治の次元をなす。こうした希望をもたらす自己完成の内実を明らかにすべく、映画『フィラデルフィア物語』をめぐるカベルの議論を参照し、そこで契機とされる「教育」を分析することを通じて、政治教育を再考する。
本研究は、教育改革の構図に関する示唆を得ることを研究の射程に入れ、「教育的教授」論がプロイセン教育改革期において、学校批判と改革の論理的機軸となっていったことを明らかにした。「教育的教授」論に長い前夜があったことをトラップ・ニーマイヤーによりながら検討した後、ヘルバルトの『一般教育学』の発刊を受けて、プロイセン教育改革の中で、「教育的教授」が改革の中心論点へ成熟していった過程を、グラッフ、フンボルトに焦点をあてて明らかにした。
本論稿の課題は、演劇教育家V.スポーリンの思想に見られる「エネルギー」という概念の内実と射程を明らかにすることにある。これにより、従来即興パフォーマンスの実演/思想を立脚点とする教育の実践/理論のなかで多くの場合に無規定なまま使われてきたこの概念の、意味と用法を見定めるための端緒が築かれる。加えて、即興演劇やインプロゲーム等の手法を用いた教育実践の分析・省察にとって、このエネルギーと呼ばれる現象に関する彼女の思想が重要な視点を提供するものであることが明らかにされる。
防災教育の1つとして考案された「ジレンマほぐし」は、他者と協働し、状況に応じて知識や技術、合理性を用いる当事者性を育む授業である。批判的実在論の知見から、この授業は、現実の不確定性を前提とし、学習者に状況のメタ認知をもたらし、そして自律的な主体への変容を促す社会的実践であるという3つの特徴が明らかになった。これらには防災教育を超える意義がある。また、実在論として特異な位置を示す批判的実在論は、新しい教育学の構想に有効であることも示唆された。
本稿は、明治期に出版された「学校管理法書」の停学と退学の罰の記述から、同書の著者らが、いかに近代学校秩序を創出、維持すべきと論じたのかを解明しようと試みたものである。この作業をとおして、停学処分には、学校に所属すべき児童とはどういう者かを児童らに認識させる機能が、退学処分には、学校教育が前提とする個人の変容可能性という信念を維持する機能が与えられていたことを明らかにした。
本研究の目的は、1930年代の教育学論争の中で篠原助市がいかにして教育学の自立性を定立しようとしていたかについて、彼の「開いた体系」論への参照を中心にして明らかにすることである。先行研究は篠原による教育学の純粋な自立化への努力のみを取り上げ、彼の論稿に見られる論理的首尾不一貫や哲学への依存は、論述上の矛盾や瑕疵として扱われてきた。本研究は篠原によるリッカートの「開いた体系」への言及に着目することで、彼の不一貫と他学問への依拠がむしろ篠原教育学の積極的な意義を示していることを検討した。
本稿の目的は、現代日本における「留学」に対する認識の変容過程を検討することである。分析を通じて、責任やリスクといった主体の裁量性を前提に、「留学」で生じる「困難」や非日常的な「体験」が「自己変革」の契機や就職市場において自己の能力を涵養・表現する「エピソード」として読み替えられていくことが明らかになる。以上から、日本社会において短期・体験型の留学が定着した過程とその社会的意味を考察した。
本研究の目的は、R. J. バーンスタインの「身を投じた可謬的多元主義」を手がかりとして民主主義社会における教育学の責任と機能的な力を示すことである。バーンスタインによれば、哲学は諸批判の批判を通して、行為と知性の広がりゆく螺旋としての民主主義的自由を創造・拡大することができる。本稿は、自由の創造・拡大とデューイの「教育」の重なりを指摘し、身を投じた可謬的多元主義の教育学的次元を明らかにした。そのうえで、論争などの知的な異分野交流を批判・反省するという教育学の責任と機能的な力を提示した。
本研究は、教育実践が異なる環境に持ち込まれ、現地の文脈で新しい意味を持ち実践される事象―教育実践の「再文脈化」―について、インドネシアの公立中学校のレッスンスタディ実践を事例に分析する。教員改革では、教員は特定の組織の規範や社会関係を考慮し、現場の状況に応じて取捨選択を行っている。学校文化による社会的統制が、教員の日々の実践とレッスンスタディの実施に与える影響について、概念的に提示した。
本研究は研究室コミュニティへの参加の実態と課題の解明により、その改善に資することを目的とする。大学の国際化において研究室の重要性が増す中、国内外でその実態が解明されておらず、学術的に体系化された方法論がない。分析の結果、留学生のコミュニティ参加の契機、参加の肯定的・否定的側面が明らかになった。また、コミュニティの閉鎖性と同化圧力、参加形態における選択肢の少なさが同化圧力をうむことが示唆された。
本稿ではユートピアの回帰を先導したデイヴィッド・ハルピンの議論と、それに対する批判を取り上げ、ポストモダン以降の希望を語ろうとするユートピア的教育学がどのような意義と問題点を抱えているのか明らかにする。全体主義を回避するためにユートピアの具体的な内容よりも想像力に焦点を当てるユートピア的教育学においては、あらためてユートピアと教育の連関が問いに付され、その射程は教育によって人間と社会の改善を試みることの是非にまで及ぶものである。
本稿では、国立大学協会(国大協)による1980年代の共通第一次学力試験(共通一次)の改革過程を分析し、大学入試の共通試験におけるアラカルト方式導入の要因を再検討した。その結果、各国立大学の入試に関する動向の変化や共通一次に関し意見がまとまらなかったことという内的要因と、文部省の改革要請という外的要因を背景に、国大協が共通一次利用の自由化・弾力化という方針転換を行い科目削減と実質的なアラカルト方式導入を決定したことも、アラカルト方式を採用した大学入試センター試験の実施に繋がる重要な要因だった点が解明された。