特定学校への通学を前提とした日本の就学義務制度が有する欠陥に対しては、就学と通学を分離し、通学を前提としない非通学(オンライン出席)による普通教育機会保障を展望する必要がある。その際、市町村教育委員会は、「多様な普通教育機会保障の推進」と「公立学校ネットワークの形成」が、都道府県には、市町村連携による広域的で、児童生徒期を通じた継続的な保障のための新たな協議会・総合支援センターの設置が求められる。
COVID-19をきっかけに学習の場や形態をめぐる選択肢が拡大するなかにあっては、個別の教育的ニーズへの応答可能性を高めながらも公教育の複線化を回避することが求められる。具体的には、子どもの特性や背景に起因する「切実さ」に応じた資源配分を一条校の枠外にまで拡張させて行うとともに、多種多様な子が集える共生の場づくりを通常の学校や学級で進めねばならない。共生の場づくりは、子どもへの対応にかかわる「わからなさ」を大人の側が引き受けるプロセスのなかで実現されうる。
教員不足とはいったいどのような状態のことか。不足の規模はどれくらいで、なぜ不足するようになったのか。本稿では、公立学校における教員の配置・未配置の実態およびその要因を、事例研究を通して実証的に明らかにする。また配置される教員や学校側の視座から、未配置が教員の職務や力量形成に及ぼす影響にも迫る。X県では、2021年5月1日時点で1971人の正規教員が配置されず、非正規雇用教員を1856人配置してもなお、115人が未配置となっていた。
COVID-19拡大によって発出された「全国学校一斉休業」要請は、子どもの学ぶ権利と成長発達の権利を著しく制約するものであった。本稿は災害リスク・ガバナンスを基盤とする教育における危機管理モデルについて考察する。災害リスク・ガバナンスは災害を構築主義的に捉えて脆弱性の高い「災害弱者」の権利・意思を重視する。学校教育の危機管理は災害時において弱い立場に置かれる子どもの権利・意思を中心に構築される必要がある。
本稿は、20世紀初頭、アカデミアを中心に、「国民」や「男らしさ」など理想的な人間像(人格)への自己形成が倫理(的)修養として称揚される中で、心理学者元良勇次郎が、意志を重視するカント倫理学への批判から知情意の調和としての人格を説き、科学万能主義への批判から主観的な経験の中で感情を伴いながら知識を獲得する修養を説いたことを明らかにした。ここには、心理学に基づく「実際倫理」、そして哲学と(自然)科学の双方から主観的な経験をとらえる「科学としての心理学」という彼の挑戦があった。
本研究は、戦前の自由学園における美術工芸教育について、同時代的な芸術運動の動向との関係に着目しつつ、その特徴と歴史的意義を検討した。本実践は、その背景には羽仁もと子の生活と芸術を融合させる思想や山本鼎の農民美術があり、裁縫を芸術に包摂したファブリック・アートを推進し、婦人工芸運動としての性格を有していたことが明らかになった。
本稿の目的は、森昭の人間形成論における偶然論を、彼の師である田邊元の偶然論の観点から検討することを通して、戦後教育学の発達論に伴う「必然性」を相対化する視点を提示することである。本稿は、戦後教育学における発達論が含意している子どもの発達と社会の進歩の必然性という考え方の相対化を図るために、田邊と森の偶然論の思想史的な検討を通して、必然性の否定としての偶然性が有する教育学的な可能性を論じるものである。
近江学園の教育実践では、教職員とのかかわりだけでなく、多様な子どもたちの集団活動や子どもどうしの関係のなかで「ヨコへの発達」が生じていた。職員たちは「タテへの発達」概念では捉えきれない子どもの成長の存在を初期から把握しており、1960年代前半には「ヨコへの発達」概念の萌芽ともいうべき発達観を獲得した。60年代後半には「ヨコへの発達」の保障をねらいとして実践が行われ、そこでは子どもたち互いに仲間として認め合うことも「ヨコへの発達」の一側面として認識されていた。
本稿は、1970年代を中心とする障害児の普通学校就学運動において、子どもたちの声がいかにして受け止められ、運動に位置づけられていたかについて、止揚学園の「教育権運動」に焦点を当てて検討を行った。就学運動における子どもたちの声の聴き取りは、聴き取る側の権利観・教育観に加え、運動全体の文脈や社会状況の変化等に左右されるものであるとともに、運動の文脈にはとどまらない子どもたちの関係性が持つ可能性も、止揚学園の記録から示唆された。
本稿では、モンゴルの才能教育の構造と機能を明らかにすることで、才能教育を公教育の中に制度化する意義と実践的な諸課題を考察する。まず、モンゴルの才能教育の歴史的変遷を明らかにした上で、オリンピアードや深化学級の実態について関係者らへの聞き取り調査を実施した。その結果、モンゴルの才能教育は、才能を発掘するだけでなく、極端な単線型教育制度を補完し、児童・生徒の選抜機能を担っていることが明らかになった。
本稿は、外国にルーツをもつ子どもを対象とする地域の学習支援教室の事例を通じて、「学習」と「居場所」を両立させる支援者と子どもの関係性を検討するものである。道具性と自己充足性を分析概念とし、「場」を相互主体的な関係による動的なものと捉え直した。分析から、〈ケア〉と目的的行為の接続を生み出す教育的関係の構築が両立の条件となることが示された。そこから、教育システムにおける社会的困難を抱える子どもへの排除性が低減する可能性が示唆される。
本稿の目的は、学校教育における「多様性」と「統一性」の折衷点を考察することである。具体的には、南アフリカ共和国の事例に焦点をあてて、質的研究により、同国の西ケープ州で高等学校段階のLife Orientationに関わる教育省行政官と学校教員の認識を分析・考察する。本稿では、現在の南アにおいては、教育省行政官と学校教員が批判的/反省的態度を有することで、「多様性」と「統一性」の同時達成が促進されている側面があることなどを指摘する。