学力問題は,これまでもしばしば当代の教育問題とリンクして取り上げられている。今般の「新しい学力観」をめぐる論議もまた,社会の「学校化」の進行と,文部行政に対する学校当局の「過剰な適応」の問題を抜きにしては考えられないといえる。本論はこの問題を克服するために教師教育論の視点から学力論を再検討し,教師の成長・発達論と学力形成論の結合によるダイナミックな学力形成論の提案を行なう。かつて,齋藤浩志(1978)は,「つめこみ主義」教育の結果が「落ちこぼれ」と言われる子どもの増加による「教師自身の『教えてわからせるよろこび』」を奪うとした。今日ではこの問題は日常化し,創造的であるべき日々の授業作りを放棄し,「教育」という営為をルーティン化する教師の「疎外」状況が深刻化している。この「疎外状況」をめぐり,本論考では教師の自己形成に関わる三視点から問題を明らかにし,解決の展望を得ることを意図している。その一つは教師の教育主体としての「自我意識の形成」であり,二はこれまでの学力論の中軸を占めた学習者(子ども)の発達保障のための統一的学力形成論の視点であり,三は二に教師自身の「一人称視点による授業評価の妥当性」追求を結ぶ教師の成長・発達論を含む視点である。本来「学力」評価は,教師にとっては自らが子どもと共に実施した授業の成果を確認し,明日からの授業改善の指針を得,カリキュラム評価を行うためのものであり,教師は子どもの学力を保障する営為を通して,自らの力量を形成し,その専門性を確認してアイデンティティーを得る。その際,子どもの学力形成に関与する教師としての自己を対象化し,一人称視点による授業評価の妥当性の追求が必須の条件となる。というのも近年の教師教育研究成果によれば,「評価」の妥当性は「教師自身による気づきself awareness」に支えられた教師の力量によって保障され得ると考えられるからである。すなわち自らの授業実践を対象化し妥当性を追求する「研究者」として教師をとらえ,教師は子どもの「学力」形成という自らの任務を通してその力量形成をはかり,その専門的成長過程をとおして自己形成をはかると考えられるわけである。そこで,第一の視点として芦田恵之助の「自我主義的学力形成論」の今日的意義と問題を考察する。第二の視点では,太平洋戦争後に実存的自我観から出発した東井義雄の「統一的認識形成」を目指す学力形成論の今日的意義と問題を考察する。そして,教師の自己形成を支える授業再生のための学力形成論を展望する。従来、学力問題は子どもの「育ち」という発達保障の視点や,社会・行政学的視点から実体論中心に考究されてきた。しかし今日の授業の危機的状況は,授業主体としての子どもと教師の「疎外」状況にあると見るならば,授業における「人間性の回復」は緊急の課題であり,この視点からの「生成する学力」すなわち学力形成論の考究が必要だと考える。本論考は,この授業主体としての教師の視点からの学力論の再検討である。
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