日本橋学館大学紀要
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1 巻
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  • 小山 貴
    原稿種別: 本文
    2002 年 1 巻 p. 3-15
    発行日: 2002/03/30
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    人口の高齢化が進む中で、健康維持を目的として運動を日常生活に取り入れる習慣が普及している。最近は多彩な運動に取り組む女性も多く、その中でここ数年、HULAを愛好する中高年女性が増加している。しかしエアロビックダンスと違って、フラダンスについては一般に「ハワイの観光ショウ」程度の認識が強いためか、運動生理学的な検討はほとんどなされていない。そこで、中高年女性がHULAを行ったときの生理的応答を測定し、健康運動としての有効性の検討を試みた。被験者は定期的にフラ・レッスンを受けている33〜68歳の女性15名である。HULAは常に膝を曲げた状態を基本姿勢とし、これを保持してステップを行うことによって独特の腰のスイングが可能となる。各種ステップにおける筋電図により、初心者と熟達者では顕著な差が認められた。したがって、跳躍動作のないフラ・レッスンを継続することは、日常生活では衰えがちの内側広筋を含めて、下肢の筋肉の有効・安全なトレーニングになると考えられる。テンポの遅い(♪=90)曲の場合も初心者と熟達者では体重当たりの酸素摂取量に有意な差が認められた。初心者では屈膝が少なく、おもに上肢だけの運動になるため酸素摂取量が少ないものと思われる。ダンス中の心拍数は♪=90〜110の2曲とも初心者では60〜65%HRmaxの範囲にあり、熟達者が動きの大きいソロを踊った場合は75%HRmaxに達した。運動強度は高齢初心者の場合、曲のテンポにかかわらず3〜4METSであるのに対し、熟達者では4〜7METSであった。レッスンでは各人の年齢・体力・技能程度に応じた配慮がなされるため、それぞれ適度な強度となっている。ダンス中の全消費エネルギーは♪=90の[PUA MANA]で、初心者は1.6〜3.8kcal/m、熟達者では2.4〜5.6kcal/mであった。各人の技能と曲の種類、さらに振り付けによって幅があるものの、通常の歩行〜速歩と同程度のエネルギー量は消費できるものと認められる。ダンス直後の血圧は30分のレッスン直後においても安静時から大きな上昇は認められなかった。一般に、中高年者には歩行が推奨されているが、そのほかに週1〜2回の楽しい要素を含むフラのレッスンを受けることは、気分転換効果ばかりでなく、下肢の筋力や心機能の維持改善、さらに消費エネルギーを増加させるための適度な健康トレーニング効果が期待できる。
  • 楠原 偕子
    原稿種別: 本文
    2002 年 1 巻 p. 17-31
    発行日: 2002/03/30
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    スポーツマンや俳優、舞踊家、ミュージッシャンなどは、からだをメディアとして使用することを専門とする人びとである。彼らが、からだを鍛えるということは、個々の人間の持つ身体機能を専門に応じて十全に働くように調整し、それを巧みに操作できる力を涵養することが目的だ。そして、そのための鍛え方がある。ところで、一般にだれであれ人間という存在は、個々の持つ身体各部の機能が感情や知能とも解け合って、有機的に働いている状態の全体を指す。それこそがこの世に生きるということである。このような一般の人が、からだを鍛えると言うときは、それぞれの身体条件を全体の中で調和させながら十分に機能するように訓練することであろう。それぞれの身体条件ということは、個々の人間が持つ身体の物理的・有機的特徴を指し、全体というのは、一つにはその個の存在全体を指すと同時に、個の存在している周辺の環境との関係をも取り込んだ全体も含んでいる。人間は、所詮、社会(孤島などに一人きりで置かれた場合も含めての社会)的な存在として生きているからである。いずれにしろ、存在としての人間を調和のとれた有機体として保持することが目標であれば、ここで鍛えるということも、特殊な人間の問題でも特殊な場合に備えることでもなんでもない。たしかに「鍛える」ということばには、程度の差はあれ、かなり継続的な訓練や修練の意味が含まれている。しかし訓練という行為の基本には身体機能を通して身体を認識するという前提があるとすると、いわば「鍛える」前提段階は、ごく普通の人間にとってのごく当たり前の心構えを持つことであり、それは日常行為に直結したことなのである。本論は、わたし、あなた自身のからだをテクストとして、われわれの日常における身体への認識を持つための道をつける一つの覚え書きである。難しい理論などへはなるべく踏み込まないで、普通の人間の抱く日常感覚としての身体について的を絞っていきたい。ただ、これには当然、現代人としての視野が入ってくるであろうし、同時に、国際的視野に立ちながらも日本人であることを見据えて考えていきたい。それにしても、身体は存在そのものの基本であるので、古来人間はさまざまの面から「身体」というものをどのように認識したらよいか論じてきた。現在はとくに、西欧的に近代化されて以来、精神と肉体(心的なものと生理的・物理的なもの)の二元論で把握し人間に対して精神・思考機能を偏重してきた視点への反省があって、両者を切り離し得ない存在の総体としての身体性について多くの人がさまざまな角度から論じなおしており、おびただしい書物や論文が出まわっている。哲学の視点、心理学の視点、人類学、民族学の視点、広い意味での社会学・メディア論の扱う視点、そして芸術論においては言うまでもない。もちろん人文系ばかりでない。当然ながら治療、医学において、また技術などの分野でも異なる観点から身体論に迫る。それに加えて、インターカルチュラリズムの動向にともなうグローバリゼイションの動きが加速されている今日においても、西洋における身体観、東洋におけるそれなど、生活、制度、思想を総合する文化伝統のあり方によって、依然として微妙に異なる身体観が存在しているのである。
  • 古山 英二
    原稿種別: 本文
    2002 年 1 巻 p. 33-45
    発行日: 2002/03/30
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    北は北海道から南は沖縄まで全国47の地方自治体は、インターネットでそれぞれの地域情報を発信している。地域産業連関表もその一つで、ほとんどの自治体はExcelでダウンロード可能な形式で基本取引額表、投入係数表、逆行列係数表を公表している。一部の自治体からはフロッピーを郵送してもらう等、全ての自治体に関し産業連関表を収集することが出来た。分析結果はいたって凡庸で、福井県を唯一の例外として全ての自治体の付加価値最大貢献産業は住宅賃貸と商業(小売業、卸売業)であることが判明した。福井県の最大付加価値産業は原子力発電であった。
  • 金山 弘昌
    原稿種別: 本文
    2002 年 1 巻 p. 47-63
    発行日: 2002/03/30
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    フィレンツェのピッティ宮に付属するボーボリ庭園は、16世紀半ばに成立したもので、もっとも重要なヨーロッパの歴史的庭園の一つとされる。同庭園は、幾何学的建築的性格の強い、典型的なイタリア式庭園である。庭園を構成する要素の中でも、もっとも特徴的なのが、「アンフィテアトロ」と呼ばれるカヴェア状の階段席からなるU字形平面の建築物である。この施設の役割は二重であった。通常は単に「見られる」ための書き割りあるいはモニュメントとして機能し、大公家の祝祭においては、「騎馬バレエ」と呼ばれたトーナメント風オペラのための真正の劇場あるいは「囲われた広場」として機能したのである。このアンフィテアトロは、「テアトロ・デッラ・ヴェルヅーラ」から改築されたものであるが、1635年の完成直後から、強い批判に晒された。とりわけその旧世代のマニエリスム様式や機能の不足が批判され、そのため各種の改築案が提案されたのである。本論文では、とりわけ17世紀後半に、宮廷の非職業的な建築家たちが提案した改築案について検討をおこないたい。その建築家たちとは、ディアチント・マリア・マルミ(1625頃-1702)とパオロ・ファルコニエーリ(1634-1704)である。D.M.マルミは、フェルディナンド2世とコジモ3世の、二代のトスカーナ大公に仕えたグァルダローバ勤務の廷臣である。彼は宮廷の建築家、デザイナーとしても活躍した。マルミの素描の中には、いくつかアンフィテアトロについての計画が含まれている。本論文では、アンフィテアトロ新設のための2点の図面(GDSU5159A r; BNCF, II. I. 380, c. 108 r)について検討をおこなう。マルミは現存のものと類似した平面の、しかしより複雑な構造のアンフィテアトロを提案した。この計画でマルミは、とりわけ動線の問題に取り組んだ。彼の案のアンフィテアトロは、各種の「通路」や「回廊」により宮殿と結ばれている。それらの通路は、宮殿、アンフィテアトロ、庭園を結ぶ連絡網を構築しており、それは単に実際的な機能だけでなく、宮廷の社会倫理的必要性、とりわけ階級分離と「デコールム」の原理によって特徴付けられている。様式に関しては、マルミ案は独創性を欠き、アンマンナーティによる中庭の、象徴性の強い建築言語の採用を既に提案(1641年)していたアルフォンソ・パリージに従っている。コジモ3世の側近にしてディレッタントの建築家であったパオロ・ファルコニエーリは、1681年、新しいアンフィテアトロの計画を含む、ピッティ宮の根本的な改築計画を提案した。図像史料を欠くものの、フィリッポ・バルディヌッチの記述(『美術家消息』第4巻、1688年)により復元することが可能である。ファルコニエーリにとっても、主要な目標のひとつは庭園と宮殿の「高貴な連絡」の整備であった。ファルコニエーリはさらに、アンフィテアトロの建築類型と様式を見直した。U字形平面に代わって、まさに真正の古代のアンフィテアトルムの形式である、楕円平面を採用したのである。この選択はベルニーニの影響を反映している。ルイ14世のルーヴル宮をめぐる有名な出来事の後、フィレンツェはようやくこのローマのバロックの主役の「壮大さ」に満ちた構想を評価し始めたのである。実際、ローマに住みパリを経験したファルコニエーリは、トスカーナ大公国の時代遅れで地方化した様式を、新たな芸術の中心地の様式を「接ぎ木」することで、「近代化」しようと図ったのである。
  • 内藤 文子
    原稿種別: 本文
    2002 年 1 巻 p. 65-76
    発行日: 2002/03/30
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    盛期中高ドイツ語叙事文芸における、いわゆる「古典」と呼ばれる叙事詩人の中に、自らの文芸観を吐露するにあたり"wilde maere"という語を用いた詩人たちがいた。これは先行研究においてもしばしば論議の的とされてきた問題である。更に13世紀中葉以降に活躍したコンラート・フォン・ヴュルツブルクの叙事詩中にも、形容詞"wilde"の頻出する傾向がみられる。本論では、こうした事実に基づき、12世紀中期から13世紀中葉前後の中高ドイツ語叙事文芸における形容詞"wilde"の意味領域を考察し、特に"wilde maere"の再考を試みるものである。
  • 茶園 利昭
    原稿種別: 本文
    2002 年 1 巻 p. 79-92
    発行日: 2002/03/30
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
  • 北垣 日出子
    原稿種別: 本文
    2002 年 1 巻 p. 93-108
    発行日: 2002/03/30
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
  • 塩月 亮子, 名嘉 幸一
    原稿種別: 本文
    2002 年 1 巻 p. 109-123
    発行日: 2002/03/30
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
  • Neil PARRY
    原稿種別: Article
    2002 年 1 巻 p. 125-135
    発行日: 2002/03/30
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    English media studies present special challenges for students who are non-English majors, and as a result traditional approaches to teaching often fail. Their relative lackof experience with reading and discussion means they have not developed suitable learning strategies to deal with newspaper articles which have a specialised style andvocabulary and move on to discussion of the topics. Furthermore, such students have additional problems of motivation and confidence with regard to learning English. Thispaper suggests a re-evaluation of the role of media studies as an opportunity to develop leaning strategies, and describes a teaching approach using integrated materials designed to help non-English majors improve learning skills and develop motivation and confidence as language learners.
  • 宮本 要太郎
    原稿種別: 本文
    2002 年 1 巻 p. 139-151
    発行日: 2002/03/30
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    フォーカス・オン・ザ・ファミリー(Focus on the Family:家族への焦点)によれば、アメリカの伝統的な家族は、「世俗的ヒューマニストたち」によって激しく攻撃され、その結果、崩壊の瀬戸際にあるという。とりわけそれは、1960年代と70年代の、価値に関する世代間ギャップおよび主婦の高い就職率とによって推し進められた。しかしこの「危機」は、最近の数十年に限定されるものではない。世代間ギャップはアメリカの歴史を通じて見られるものであるし、第二次世界大戦以前からアメリカのおおぜいの妻や母たちは外で働いてきたのである。彼らのいう「伝統的家族」とは、とりわけ50年代に都市近郊の共同社会において優勢だった家族モデルに基づいているようである。その家族が依拠する伝統的価値は、フォーカス・オン・ザ・ファミリーのような保守的なキリスト教徒アメリカ人にとってのみ「伝統的」である。すなわち、「伝統的家族」は必ずしも「伝統的」ではない。むしろそれは、ある政治的-宗教的目的によって意図的に回復され、「発明」された理想の家族である。より深層意識のレベルでは、それは理想的な家族へ回帰したいという欲望の表明なのである。理想の家族に対するこのようなある種ノスタルジックな願望は、日本の新宗教にも共通しており、そこでは教祖を当該共同体の成員のみならず人類すべての親とするレトリックが用いられている。保守的なキリスト教徒は、女性はできるだけ家にいるべきだと主張する。彼らは、家族とはどうあるべきかを明らかにするために、「今、ここで」伝統的な価値を復活しようと試みている。彼(彼女)らは、ユダヤ-キリスト教信仰によって家族を「聖化」しようとしているのであり、そしてこの「聖化」は、建国の父の精神を維持する父=大統領の指導のもとで一つの「家族」としてアメリカ合衆国を「聖化」しようとする動きに対応している。一方、日本の新宗教は、地域共同体の絆を失い都市社会で孤立している家族に対し、ヒエラルキーではなく平等に基づいた人間関係のための範型を提供する。新宗教は、それら家族のためのモデルとして機能し、家族の親子関係や夫婦関係に宗教的意味を与える。換言すれば、新宗教は世俗化された家族パターンを再聖化する手段を提供するのである。かくして、歴史的および文化的差異にもかかわらず、合衆国のフォーカス・オン・ザ・ファミリーと日本の新宗教との間には、家族の価値に関して、重要な共通性が指摘されうる。第一に、両者とも、伝統と近代化(および世俗化)の間を揺れ動く家族に、伝統的価値に基づいた家族のモデル像を提供する。第二に、両者は、家族内の関係をもっとも重要な人間関係とみなし、個性よりも「調和」や「共同」により高い重要性を与える。最後に、両者にとって家族とは、何よりも信仰の場である。それぞれの家族とその家族が属する宗教共同体との同一視を通じて、フォーカス・オン・ザ・ファミリーも新宗教も、家族を「聖化」すると同時にその家族をそれらの価値体系に編入するのである。
  • 内藤 文子
    原稿種別: Article
    2002 年 1 巻 p. 155-156
    発行日: 2002/03/30
    公開日: 2018/02/07
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