ひとりひとりが全く別々のからだをもっているという事実をもっともっと大切にしたい。別々であるが故に、「文学」における一つのことばや事象にうらうちされるイメージは異なる。相手のイメージとのずれや重なりをていねいにさぐり、新たな、深く広いイメージをお互いのからだの中に生ましめていく。「『人の意見や考えを聞いているとね、おもしろくなってくるの。いままで考えていなかったことが、どんどんうかんでくるというか、わいてきてね、おもしろくなって、また意見を言いたくなるの』二年生の和子ちゃんは、自分のからだも心もゼリー状にして相手の声やことばを受けとめていた。からだを全開し、感じたことをことばにし、それを友だちにかえしていくというサイクルの中で自分の想像力を豊かに働かせ、思考を深め、より確かなものをさぐっていった。その中に思いもよらない発見があり、驚きがあり、イメージの広がりがあった。」<「イメージをさぐる」(太郎次郎社刊)より> からだをゼリー状に、生き生きしておくということはどういうことなのか、相手のイメージをていねいにさぐるということはどういうことなのか、そして、その空間の中で共に生きるということは……それを組織していく教師のからだの問題は……。ここ数年間で気がついたことのいくつかを論じたいと思っています。
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