専門家である以上、自らの方法や、よってたつ所に自覚的であるのは当然のことであるし、研究上の手続きや成果は、常に外に開かれたものでなければならない。外部からの刺激も、研究の活性化のためには欠かすことのできない要素である。しかしながら、周辺諸学の方法の積極的な導入は、一方で、私たちを益々受動的にし、研究それ自体を、端からその前提となる立場や視点を共有できるもののみを相手にした、排他的な隠語(ジャーゴン)の応酬に低迷させかねない面をも持つ。自らの立場や方法をあまりに声高にすれば、批評のための共通の基盤は失われる。古代文学研究における方法の功罪について、『源氏物語』明石巻の桐壺院の夢告げを題材にして考える。