日本の古代王権は、律令国家の形成を支えるイデオロギーとして神の系譜に連なる王の物語を持ったが、これはいわば自己言及的なものであって、併せて外部に照らして自己確証できるものを必要とした。そこで導入されたものが中華帝国の採用する華夷秩序であった。その要請に従って、周縁的なものとして創出された「異言語・異文化」であったが、それは実は「王権」のもう一つの自画像に他ならないことを、否応なく突きつけられたのであった。
日本神話は、始原の時を雑霊(ぞうりょう)の活動する世界として表現した。「さばへなす」は呪力を持つ蝿(はえ)の意味で、始原世界を表す定型句である。蝿は最初の死者イザナミに集(たか)った黄泉国(よみのくに)の蛆(うじ)が変身したものである。「さばへなす」は、愛によって親を苦しめる「子ども」、皇子(みこ)の死に動揺する「舎人(とねり)」にも冠(かん)せられた。また「さば海人(あま)」は異言語を話す異人を言う諺(ことわざ)であった。雑霊の表現の特質が集合・雑音(ざつおん)・無名であることを、本論は明らかにした。
訓字主体であれ、真仮名主体であれ、八世紀までは「やまと言葉」は漢字で書かれていた。漢字で書かれるということは、漢語という規範言語のなかで書かかれるということに他ならない。この意味で、「やまと言葉」は、つねに―すでに、言葉としての固有性、根源性、本来性の点で、不純性を刻印されており、漢意(からごころ)の汚染を孕んで発生している。神話や歌が、文化としての本来的なもの、固有なものへの欲望をあらわし出すありようを、文字書記の問題として論ずるのが本論の企図である。
唐代口語語彙は、律令・仏教・文学という学問の講説の場で、最新の唐代の学問を継承し、中国語話者をふくむ講師によって口頭で講じられ、講義録として私記類に記録され、さらにそれらが類聚編纂されて古辞書・古注釈類をはじめとする後世の文献に定着した。
講説の場として、律令学の大安寺における「僧尼令」講説、仏教学の唐僧思託による漢語を用いた戒律経典の講説、文学の『遊仙窟』講説という三分野の学問の場をとりあげ、その担い手が律令官人・在俗仏教徒・文人という性格を兼ね備え、彼らが学問としての講説の場で唐代口語という異言語を共有していた状況をあきらかにした。
講説の場では、養老年間以前に成立した会話辞書・口語辞書『楊氏漢語抄』『弁色立成』等が工具書として共通して使用されていた可能性を指摘し、律令学・仏教学・文学の諸分野が交錯する多言語・多言語状況を論じた。
益田勝実の「漢文にはカタがあったが、和文(散文)にはカタがなかった」という見解に反論する。「漢詩文発想の和文」という視座から初期散文文学である『土左日記』の言説は生成されていったと説く。具体的には、漢詩文に長じている作者、紀貫之は、初期散文を生成する際に、「異言語」である漢詩文の「対」の発想を規範として、「虚構」の場面や日次の記事を紡いでいったことを論じている。
我々が読む「古代文学」とは、中世あるいは近世の人間が書写しており、その過程を経て存在する。写本の本文は勿論、注釈及び補入された本文を読むことは、その筆者たちが構築した「古代文学」を読解する手がかりとなる。本稿では学習院本『栄花物語』のなかの異言語を考える。学習院本における特殊な注である嫄子女王逸話の分析を起点として、『栄花物語』写本群をとりまく本文に対する認識を読み解くことを目的とする。