『浄瑠璃御前物語』は人形操り「浄瑠璃」の発生と関わりが深いと思われてきたが、まだきちんとした整理がなされていない。また、この作品は同時に近世初期小説の第一作としても注目される作品でもある。ゆえに、この作品は語り系の本文と、草子系の諸本とを分けて考えるべきであるが、現行の研究ではそれがなされておらず、そのため混乱している。本稿は、その草子系諸本の整理を論じたものである。従来、この作品は東大本の十二段本を中心に研究が進められてきた。東大本は一時はすべての草子系の祖本とみなされたこともある。しかし、近時、草子系の注目すべき本が見つかった(日本女子大学所蔵本)。その新出本を東大本などの比較、検討から近世初期の草子系『浄瑠璃御前物語』を論じたのが本論である。
この十年、西鶴研究は、各研究者の論文集の刊行のみならず、さまざまな形で西鶴の面白さを伝えようと外への発信を強めてきた。この動きをさらに活性化させるためには、西鶴を専門とする者以外も、これに呼応していくことが望ましい。ただし、西鶴作品には独特の難しさがあるのも事実であり、また従来の研究史の厚さもなみなみならぬものがある。そうしたなかで、生産的な形で西鶴研究に資するにはどのような方向性があるのかを、筆者なりに模索してみた。その過程で、西鶴の典拠研究の考え方や用語を整理した結果、古典類を典拠とする趣向については、落ち穂拾いが可能なのではないかと考え、『武家義理物語』の一話を例に試論を提示した。西鶴に限らず、近世文学にはまだまだ「束になってかかるべき」対象があり、各研究分野における問題意識を共有するためには、研究の現況を外に開いていくこと、そして他分野の研究者が自身の流儀を応用・適用しながらそれに応える努力をしていくことが、細分化されたと言われて久しい研究状況の突破口になると思われる。こうした地道な積み重ねが、学生や近世文学に興味を持つ一般の方に、近世文学の魅力をより広く伝えていくことに結実していくのではないだろうか。
かねてより、私は、近世文学の一領域として「奇談」を提案してきた。
もちろん、私の提案に対して、反対の意見もある。
反対意見へのコメントを含めて、あらためてこの問題を考えたい。
とくに「奇談」における語り(咄)の場の設定について検討し、あわせて、近世仮名読物史に「奇談」という領域を仮設することの意義を述べる。
近世文学、とりわけ小説・読み物の研究に必要なのは批評、それも批判的批評であると考える。そこで本稿では、馬琴が『本朝水滸伝』に対して行った批判的批評を取り上げ、馬琴とともに『本朝水滸伝』を読み、批評することを試みた。馬琴の批評そのものも批判的批評の対象としつつ、馬琴が最も力を入れて批判している『本朝水滸伝』後編に登場する秦金明にかかわる箇所を読み、その意味を考察した。
芭蕉が「幻住庵記」を書いていた元禄三年、門人らに宛てた書簡には「誹文」「俳文集」といった文言が何度か使われている。去来・凡兆を指導しながら『猿蓑』の編集にいそしんでいた当時、芭蕉は発句・連句のほかに俳文でも一格を立てようとし、『猿蓑』には文章編をも企図していたことが知られている。しかし、その俳文がどのようなものをさすかについて、まとまった発言はないため、なかなか核心に迫れない憾みがある。しかも、『去来抄』に録された言辞によれば、「西鶴」を「俳諧の文章」と認めていたことも知られるため、問題はいっそうぼやけてくる。そうした現状を踏まえ、本稿では、芭蕉が「誹文」として書いたことが確実な「幻住庵記」を取り上げ、その推敲過程を通じて、その趣意が変化していったことを確認する。次に、凡兆の原案に基づき、芭蕉が俳文とすべく改稿したと見られる「烏之賦」、芭蕉が俳文と認めていたらしい嵐蘭の「焼蚊辞」を取り上げ、ここに俳文の基本的な性格のあることも確認する。これらを合わせることから見えてくるのは、人間の内面をとらえようとして、芭蕉が苦心惨憺していた姿であり、また、割り切れない問題の前で迷う姿そのものを、文芸的な趣意として発見していく様相である。そして、これが『おくのほそ道』の執筆につながっていくこと、同書は紀行文であると同時に俳文の集でもあって、やはり曖昧性を趣意としている条が見られること、その際に西鶴の書く草子が一つの先達でもあったであろうこと、などを論じていく。さらに、仮名草子と俳文の関係をどう見るかという問題にも言及し、近世前期の俳文を考えるには、芭蕉の考えに沿いながら慎重に見極めていくしかない、ということを結語とする。
小野小町の歌「みるめなきわが身を浦と知らねばやかれなで海人の足たゆく来る」を例に、古注釈の通時的変遷を跡付け、近世における古典注釈学の内容、方法について考察を加えた。松永貞徳・北村季吟は中世の『古今集』注釈を捉え直したうえで集成し、提示するという方法を取る。実証的注釈のひとつである賀茂真淵の『続万葉論』や『伊勢物語古意』においても、それらと共通する内容が見られる。
近世漢詩の世界では、十八世紀後半以降、古文辞派による擬古主義的な詩観が退潮し、反擬古的詩観(性霊論)が力を持つようになる。この性霊論の浸透以降、詩壇には、多様な詩風が開花する。本稿では、この時期の漢詩の潮流を、非写実的、写実的の二派に分け、その近代への展開を追う。また、戦後の漢詩研究では、近世後期の様々な詩のあり方のうち、今日的文学観を投影しやすい詩が、すなわち、叙景・抒情詩的性格の作品が、より高く評価される傾向にあった。本稿では、こうした理解の偏りについても指摘する。