教育において、文学を教材とすることの意義は、それを通して人間如何に生きるべきかの道徳を身につけさせることにあるのではない。それを読むという行為自体に、言語の教育としての価値があるからだ。その文学を読むという行為の本質は、言語的資材である文章(第一次テキスト)に対する主体の意味作用(signification)によって、読者の内に第二次テキストとしての意味世界を生成し、さらにその意味について考察を深め、主体にとって「未見の他者」を追究していくことにある。すなわち、〈読み〉は、読者にとって意味世界の生成による自己創造の行為なのだ。では、その自己創造としての文学の〈読み〉は、如何にして成立するのだろうか。本稿は、そのような自己創造の〈読み〉原理について考察したものである。
川端康成の「バッタと鈴虫」という言語空間における、語り、語られる現象を、語る「私」と語られる「私」から再検討する。語り手の「私」は、遊歩者として自己を登場させ、美の探究者として自己を語りながら、提灯の光が作り出す虚像の美の永遠性を逆説的に語る。その虚像の美学には視覚化を超えた世界のあり方が暗示されており、「私」が夢想した「童話」、すなわち時間的順序と因果関係の波乱のない物語とは異なる〈小説〉の可能性がそこに広がっている。
村上春樹の「タイランド」は、三人称の語りを通して、記号化された表層の語りの深層にある〈出来事〉を浮かび上がらせていく。本論ではメタレベルの語りの分析を通して、〈出来事〉を言語化できない語りのありようを浮かび上がらせた。言葉を通した〈出来事〉の分有可能性は、教室という場で互いの〈読み〉を他者と共有し、生成していく経験と重なり合うが、その共通性に本作の教材価値を見出すという視点から考察した。
読む度に、読み手のなかに〈本文〉が現象する、「読み」は、一回性のコトなのである。「美神」のR博士が希求する「美」は、〈わたしのなかの他者〉であり、その裏切りは、破滅を招き、「美」の到達不可能性を示す。
「風流仏」は、愛執を突き詰めたその先、我執を去ったところに、愛の感応があるとする。そこに近代を超越した愛の哲理がある。両者には、〈わたしのなかの他者〉との関係を通した新たな世界・世界観の提示がある。
通常、主体が認識する世界は、言葉を通して主体が捉えた客体の世界でしかない。主体が死んで消えてしまうならば、主体が認識していた客体の世界もまた消滅してしまう。だがそれは、世界そのものが消滅したのではない。主体が捉える認識の向こう側には、世界そのものがある筈である。「近代小説」は、この認識の向こう側の世界を問うことを試みた稀有な表現形式であると思われる。絵本『もこもこもこ』と芥川の児童小説『蜘蛛の糸』を視座として、小説を読み認識することの問題を考察する。
「羅生門」「山月記」、それぞれの〈語り方・語られ方〉を読むことで、物語内容をどう対象化していけるか。どのような問いかけによって、生徒の読みを揺さぶることができるか、「羅生門」では生徒の読みを検討しながら、授業を進めた。「山月記」では李徴の語りと、作品全体の語りの双方を相対化する授業を行った。語り手の、登場人物に対する見方、人物との距離を明らかにすることで、何が浮かび上がってくるのか。授業の概要と、考えていることの報告である。
中学校の新しい国語教科書(平成二四年度版)がこの(二〇一二年)四月から使われ出しています。本稿はそれらの教科書を対象にして、「これからの国語教科書」の課題を析出することにあります。この課題に向き合うために、文学教材(小説)の「学習の手引き」の作られ方について取り上げ、「読むこと」の根拠、文学作品の教材価値とその掘り起こし方、「学習課題」のあり方などを検討し、いわゆる「ゆとり」教育の問い直しが「学力向上」問題として課題とされている現時点における国語教科書の課題について提起します。こうした検討によって、「モダン」、「ポストモダン」、「ポスト・ポストモダン」、そして〈第三項〉と〈語り〉をめぐる問題を探究します。こうした探究は「赤刷本」時代の始まりという事態の中にあります。小学校では以前から作成されているものですが、中学校国語教科書においても平成一八年度版から「東京書籍」、「三省堂」において作成され、平成二四年度版から「教育出版」、「光村図書」においても作成されました。五社中四社で作成されているのです。〈第三項〉と〈語り〉をめぐる探究はそうした事態との抗争のなかにあります。「ポスト・ポストモダン」の展望は「マニュアル」希求と「深層」探究との、言葉をめぐる逆ベクトルに引き裂かれた事態のなかで問われています。全社(五社)共通の教材であるヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』(1年生)の「学習の手引き」にて、この課題を論じます。