紫の上の「対の上」は、源氏と紫の上の関係性を反映するもので、「北の方」に代表されるような、通常の妻妾の序列を示す呼称とは異なる位相にある。
では、正妻・妾妻といった妻妾の序列は、呼称に表れるものなのか。表れるなら、どのようなかたちで表れるのか。本稿では、妻妾の呼称の形式と、それに照らしたときに見えてくる光源氏の妻たちの呼称のあり方について考察する。
夏目漱石の『野分』は、これまで、感化を与える白井道也と感化を受ける高柳周作という枠組みで読まれてきた。言い換えれば、〈教育〉という枠組みを採用した読みが支配的だったわけだが、本論では、なぜ『野分』が〈教育〉という枠組みで読まれてしまうのかということを、「作者」を名乗る語り手について分析することで明らかにした。さらに、道也と高柳の孤独の内実を検討することで、『野分』は、従来言われて来たような師弟関係を描いたものではなく、「一人坊っち」としての孤独から逃れようとする高柳の行動が、よりいっそう彼の孤独を際立たせてしまうという、孤独についての逆説を描いた小説であると論じた。
本稿は初期宮沢賢治受容に着目し、彼のイメージ生成と流通の様態を明らかにするものである。生前の賢治は、テクストの表現の革新性をもって評価されていた。しかし、それが『宮澤賢治全集』(文圃堂書店)の出版を前後に、賢治の〝生活〟を強調した解釈が目立つようになる。こうした評価の転換は、賢治をめぐる情報の蓄積はもちろんのこと、彼のイメージが流通した文学場の文脈が絡み合うことで生じた現象であった。
本稿の目的は、一九五六年の東欧旅行が安部に与えた思想的影響の考察にある。チェコ人の民族的偏見への関心から、均質に見える集団内部に潜む様々な〈境界〉を見出す眼を獲得した安部は、民主集中制の限界を突破する新しい権力構造と、同質性ではなく多様性を志向する新しい共同体イメージとを発見した。この視点はその後起こったハンガリー事件への対応のなかで一度沈潜するものの、六〇年代以後の安部の問題関心へと繋がっていく。