浮世草子は主に上方から出た小説だが、西鶴の存在が大きいゆえ、大坂と強く結び付けるイメージがあるかもしれない。しかし、浮世草子全体に亘り主版元の本屋の所在地や、書名・章題等を調査すると、やはり京の小説という性格が強いことが分かる。西鶴と其磧は、三都のバランスを取り褒貶の一方に偏らないようにして、作品を創作したと推測できる。それが、彼らが作者として成功し、全国の読者から受け入れられた要因の一つだろう。
いわゆる「元禄当流」といった場合の「当流」は、ある特定のグループに属する俳諧師に固有の俳風を指し示す語としてではなく、当世風でスタンダードな風という点を重視して解すべき語である。「当流」の語が俳諧入門書や、点取俳諧と関わる場面で多用されることから、「当流」の語を「当流」俳諧の享受者の視点からとらえ直すことによって、大衆作者層の関心を引きつつ、彼らを元禄風の俳諧へと導くべく「当流」を説いた上方の俳諧師たちの姿が見えてくる。
本貫名古屋の狂歌師蘆辺田鶴丸が、三都の内の江戸で唐衣橘洲に狂歌を学び、名古屋に戻って業を廃しひたすら狂歌に親昵(しんじつ)し、さらに家族が病没してしまい哀切の極みのなかで、三ヶ津の京都狂歌壇にデビュー、狂歌三昧に明け暮れて亡くなった。
田鶴丸の生涯を見てくると、寛政、享和、文化、文政、天保という時代を、分かっている限りでも東(北)は仙台、松島まで、西は長崎まで、狂歌師として行脚している。田鶴丸は、三ヶの津、繁華な街という枠に縛られるということはなかった。しかして、少なくとも文政期以降、狂歌界においては、江戸と上方と区別する意識はなくなっていたようである。
明治期の上方歌舞伎は従来、同時期の東京の歌舞伎に比べて革新性に乏しいものであるとされ、顧みられることが少なかった。しかしながら、詳細に検討していくと、そこではいくつもの興味深い変化が生じているのである。
本論考では、特に明治十年代末までの大阪における変革の諸例を取り上げ、その多くが「東京風」を志向したものであることを示す。さらに、この時期の劇界の変化は、東京が京阪に一方的に影響を与えるというものではなく、相互に影響関係を持つものであることを明らかにし、明治期上方歌舞伎の演劇史的位置付けの再考を促す。