古事記には、神武天皇の大后となった伊須気余理比売の誕生を語る丹塗矢伝承がある。この伝承は、稲の生育を促進させる雷神の大物主神が丹塗矢になり、水田の溝に流れてきて、溝の棒杭の神格化である三島の湟咋の娘の許を訪れるというものであり、稲の豊穣儀礼を背景としている。日向出身の神武天皇が、倭の大物主神の娘で摂津の三嶋の水田を背景とした伊須気余理比売を娶ることは、天皇が倭を中心とした稲の農耕祭祀を掌握したことを示している。
〈膝栗毛もの〉の図様継承史に連なる作品の中で、『東海道中栗毛弥次馬』という全く同じ標題を有する三種の異なる作品、即ち、魯文作・芳直画の合巻A、魯文作・芳幾画の錦絵B、岳亭作・芳幾画の合巻Cを取り上げ、相互影響関係を述べることで各作品の特色を抽出し、この同題作品の成立背景にあったと思われる板元当世堂の出版戦略を論じた。猶、合巻Cの作者である二代目岳亭が書いた〈膝栗毛もの〉合巻として、更に三種があるので合わせて内容的特徴を考察した。
徳永直のデビュー作『太陽のない街』は、『メス・メンド』と『セメント』という二つのロシア小説の影響が背景にある。これらのテクスト間では、大きく二つの点で共通性が認められる。一つは、場面転換や文体などに映画的効果を生む手法が用いられている点であり、もう一つは、革命や闘争に身を投じる戦闘的なヒロインが登場する点である。本稿では、これらの形式と内容の受容を検証することで、作品の持つ大衆性を明らかにする。
先ずこの小説の〈語り手〉が語りかけている相手、〈聴き手〉は「鉄の部屋」の檻に閉ざされていることである。次に「私」の想起する閏土は昼にして夜という二重の時空間(パラレルワールド)を背景に見せ消ちで登場する。第三にその「私」が「三十年前」と言うべきところを「二十年前」と間違える。これは楊おばさんのことが十代だった「私」の記憶から消えていることと呼応する。小英雄閏土と出会った私には〈空白の十年〉が隠れている。第四に、『故郷』は一人称小説だが、この〈語り手〉の「私」は「多層的意識」を抱えている。これを読み落とすと、次の六の問題と重なって、現在の〈読まれ方〉、主人公主義のストーリーで読まれてしまう。第五、生身の〈語り手を超えるもの〉が読まれなければ、この小説の基本的枠組みは捉えられない。一人称の〈語り手〉のまなざしの〈向こう〉は直接語られていないが、〈語り手を超えるもの〉のレベルで浮上する。最後に問題の急所、末尾の有名な「希望」の論理は一人称の「私」の〈語りの擬態〉を〈語り手を超えるもの〉が暴きだした上で語られている。この「希望」は全ての観念を超えて〈言語以前〉を潜って語られ、毛沢東の永久革命の理想を実践している。