日本文学
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62 巻, 3 号
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特集・日本文学協会第67回大会(第一日目)〈第三項〉と〈語り〉――ポスト・ポストモダンと文学教育の課題――
  • ――村上春樹『風の歌を聴け』再読――
    喜谷 暢史
    2013 年 62 巻 3 号 p. 2-14
    発行日: 2013/03/10
    公開日: 2018/03/16
    ジャーナル フリー

    謎を引き受ける、謎を手放さない。こと村上春樹に対峙する場合、「作品は謎を回収していない」という紋切り型の批判に逃げ込まず、読み手は対象の不完全さを指摘する以前に、自らが捉えたものの精度を高めることに腐心すべきであろう。

    『風の歌を聴け』の場合、多くの先行論は「この話は一九七〇年八月八日に始まり、一八日後、つまり同じ年の八月二六日に終る」という規定に縛られ、小説全体というよりも一九日間という〈物語〉に拘束されている。それは登場人物についても同じで、「僕」と「鼠」と「小指のない女」という表層のトライアングルに隠れた「三番目に寝た女の子」、「リスト」でいうなれば「得たもの」よりも、むしろ「最後まで書き通すことはできなかった」「失ったもの」に囚われなければならない。巧みな〈物語〉の搦め手から逃れることができれば、春樹作品は謎を隠蔽しているというより、ときに「説明的」ですらある。

    偽作家ハートフィールドという派手な「嘘」と、「何も書けやしない」とこぼした「鼠」が拙いながらも「僕」の誕生日(クリスマスイブ)に送りつける小説と、この回想自体を構造化することが、〈物語〉から〈小説〉への解放(「象」が平原に放たれる)に繋がる。

    タイトルの「風」とは、「鼠」の語る理想の小説論の中にある言葉である。それは「蟬や蛙や蜘蛛や風、みんなが一体になって宇宙を流れていく」というもので、この「風」は謎や空白というよりも、それらを全て包んだ虚無や虚空と呼ぶべきものである。春樹の文学は宇宙に吹く「風」という「虚空=void」(了解不能性)にはじめから対峙しており、本作を問題にするのは、膨大な作品群を読み説くための基点としたいがためである。

  • ――『走れメロス』を例に――
    丸山 義昭
    2013 年 62 巻 3 号 p. 15-25
    発行日: 2013/03/10
    公開日: 2018/03/16
    ジャーナル フリー

    中学校の長期安定教材「走れメロス」(太宰治)は、その劇的な展開、一見明快なテーマ、スピード感のある文章、漢語の多用と文語調の格調高い言い回しなどによって、多大な人気を保ち続ける一方で、さまざまな作品の瑕疵(たとえばメロスの人物像をめぐって)が指摘され、好きになれないという読者も少なくない。いったい、この作品をどう捉え、どのように授業で読んでいったらよいのか、考えこまざるを得ない。

    そこで、〈物語〉と〈小説〉の違いを念頭に置きながら、特に田中実氏の言う〈近代小説=物語+語り手の自己表出〉という観点に立ちながら、「走れメロス」を再読していきたい。〈語り手の自己表出〉を読むことは、〈機能としての語り〉を問題にすることである。〈第三項〉=〈原文〉の影の働きを前提にして読んでいかなければ、読みは常に〈物語〉を補完する方向にしか向かわない。

    近年の論争点である、いわゆる「悪い夢」問題は、「走れメロス」の〈機能としての語り〉をどう捉えるか、その〈語り〉追究の端的なあらわれである。読み手(主体)と読み手が捉える作品(客体)という二項の図式を前提にしているのが、従来の「走れメロス」論である。〈物語〉と〈小説〉の違いとは何かを再考しつつ、これまでの作品論・教材研究に見られる、読みの〈制度〉を明らかにした上で、読み手(主体)と捉える客体と客体そのものという三項を前提にした読みへと転轍をはかっていきたい。

  • ――理論を禁じ手にすると文学教育はどうなるのか――
    加藤 典洋
    2013 年 62 巻 3 号 p. 26-37
    発行日: 2013/03/10
    公開日: 2018/03/16
    ジャーナル フリー

    大会テーマは「〈第三項〉と〈語り〉――ポスト・ポストモダンと文学教育の課題」である。文学理論と文学教育の関係が扱われている。それを受け、ここでは、「国語教育」におけるこの関係の大本を問う話をしてみたい。一九九六年に『言語表現法講義』という本を「岩波テキストブックス」の一冊として刊行した。当初の出版社の企画は「文芸批評理論」についての本であった。しかし、それは断り、上記の本になった。断った理由は以下の通り。一九八六年より、大学で文学の授業を行うことになり、一番困ったのは、「何を教えればよいのか」がわからないことであった。教えるのでなくて、一緒に読もうとすると、メダカの学校のように「誰が生徒か先生か」わからぬようなカオスが生まれ、ひどいストレスが教師の側に生じる。「日本現代文学」と「言語表現法」という二つの授業で、この問題にぶつかった。それで一番便利な方法が、文学理論を教える、ないし、文学理論に立って文学を教える、という「知識」の上下関係を教室に導入する方法であることがわかった。すると、知的なハイアラーキーに立つ、教える―学ぶ関係が生まれ、両者の関係が安定する。しかしそれは、本来、誰もが同じ資格で文学作品を読む、「野生の思考」のぶつかり合いであるところの「文学」にふれるという経験の核心を、回避することである。よほど注意しないと、文学理論の導入は、それを別のものにすり替える。そして、教師を助ける。それで教師はこの麻薬めいたものに依存しやすくなる。そのことに気づいて以来、自分の授業では、そういう「理論」を禁じ手にして、授業を通じ、ダイナミックな「読み」の歓びを受け取れるようなあり方をめざしてきた。逆に実践の経験から、既成の「理論」を疑い、自らの理論を鍛えることもしてきた。また、その流れで、英語で授業をやるという挑戦もしてみた。ここでは、一人の文学教師として自分の行ってきたことを紹介し、「理論」と「教育」の関係について、日頃感じてきた疑問を差し出してみたい。

子午線(大会印象記)
  • ――運敞著『(正続)寂照堂谷響集』との関係から――
    松村 美奈
    2013 年 62 巻 3 号 p. 61-70
    発行日: 2013/03/10
    公開日: 2018/03/16
    ジャーナル フリー

    本稿では、多くの漢籍引用書目が記されている『和漢乗合船』が実際直接典拠としたものは、和書『(正続)寂照堂谷響集』であることを先学の指摘を吟味しながらが考察した。そして、簡便な百科事典的文献である本書を利用することにより、漢籍利用を装いながら実在の朝鮮学士を語り手とした浮世草子を創作し、早急な開板を目指すことが可能になったのではないかと推察した。

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