隣接学問の先端は文学を求めています。〈語り〉が主体を造る、これに応えられるかどうかが文学研究に未来があるかどうかの岐路でしょう。〈近代小説〉を問題化した場合、読み手が「還元不可能な複数性」にたどり着き、その上でこれに留まるのでなく、客体そのもの=〈第三項〉の〈影〉が〈形〉を取った〈実体性〉の世界観に〈転向〉出来るかどうか、さらに、〈近代小説〉の〈ことばの仕組み〉として捉えられるかどうか、です。これは〈語り―語られる〉出来事を〈語り―聴く〉文学空間として生成されていますが、〈語る主体〉を相対化してこれを聴き取ると、そこに「〈主体〉の構築」の可能性がひらきます。
本稿は鶴田清司著『〈解釈〉と〈分析〉の統合をめざす文学教育 新しい解釈学理論を手がかりに』(学文社 2010年3月25日刊)を主たる検討の対象とします。この考察は加藤典洋「理論と授業――理論を禁じ手にすると文学教育はどうなるか――」(『日本文学』2013年3月号)の検討に展開し、再び鶴田氏の問題にもどってくることになります。鶴田氏は「テクスト」を排し「テキスト」という語を選択しています。しかし、この選択はポスト・ポストモダンの時代をいかに切りひらいていくのかという課題にかかわる看過しえない問題を浮上させてしまいます。こうした氏の躓きは加藤典洋氏の躓きでもあります。このことが加藤氏の論の検討によって明らかになります。こうした「言葉ひとつ」の探究からも「〈第三項〉と〈語り〉問題に向き合う文学教育」の扉を開ける秘鑰を掘り出すことができるのです。
本稿では、「〈第三項〉と〈語り」論が、教室においてどのように生きているかを考察した。「十人十色を生かす文学教育」論との相違について検討し、〈第三項〉の影が働く〈本文〉を拠点にし、近代小説の〈語り手〉の〈第三項〉に向けての自己倒壊への闘いの追求への着目することが、「一人ひとりの読みを生かす」ことと「共同での価値追求」の双方を可能にし、授業に求心力をもたらすことを論じた。「理論/実践」の二分法や「役に立つ」かどうかという問い方を超え、授業者が、「正解」ではなく、〈第三項〉に向けての自己倒壊を「実践」しようとする〈倫理的主体〉を構築するとき、それは学習者の〈倫理的主体〉の構築にも繋がっていくと考える。
小学校の文学の授業では、ストーリーに浸らせ、そこでのびのびと遊ばせることが大事である。だが、ストーリーをたどる読みは、教師の手のひらで遊ぶだけのものになってしまう。そこから抜け出すために、「語り」を意識させることはきわめて有効である。「語り」は、語られている世界を意味づけ、語られていない世界に出会う装置である。その「向こう側の世界」との出会いから紡ぎ出される子どもの読みは、教師の読みをも揺さぶる。
語りの向こう側を拓こうとする第三項理論により、語り手である先生も「私」も語り得ぬ領域を見据え、矛盾や違和を喚起する言葉によってもう一つの文脈を創り、語ろうと挑んでいることが読める。そこから先生に自殺を決意させたのは「私」であり、自分と類似した体験を受け渡すことで「私」という他者のなかに食い込み、罪を背負った倫理の在り方を〈自由と独立の己れ〉の〈淋しい〉時代に問おうとする先生の認識の深さが見えてくる。
私たちは、自分の使うことばの世界から出ることはできない。それゆえ、ことばの外にあるものを捉えることはできない。しかし、真の意味はことばの外から来る。私たちが真の世界へと近づくためには、自分の内部に築いたことば(=偶像)を否定し続けることが必要である。このような田中実氏の読みの理論は、唯一の神への接近を説いた「モーゼの掟」と似ている。「オツベルと白象」は、異世界のことばと接するときに生じた悲劇を描いたものである。
子どもは、乳幼児期から養育者の愛の言葉=言霊によって、日常の言葉や文学言語を習得しているので、垣内松三の「言霊」論による文学言語の指導が適していると考え、自証体系を方法原理として、「スピリットから下降する」読み方によって授業を行っている。
この方法が、田中実理論と、どう重なり合っているか、特に西洋の一神教と日本の多神教との関わりに重点をおいて捉え、〈第三項〉へ歩む適切な道を探っている。
日文協第67回大会(第一日目)において加藤典洋氏は、テクスト論の立場から生ずる「ナンデモアリ」の読みに対する違和感を唱え、「〈第三項〉の理論とは、同じ出発点に立って」いるとしながらも、「読者と作品の関係性の一回性に基礎を置く文学理論」、「読者と作品のなかに浮上する」「作者の像」が、読者一人ひとりの「コレシカナイ性を作り上げる」という氏の「読書行為論」を提唱した。それは、第66回大会に登壇した竹田青嗣氏の唱える「一般言語表象」に触発されたものであるという。また加藤氏は、田中実氏の提唱する「第三項」を超越的なものであるとし、カントの「物自体」との類縁性を訴え、前年の竹田氏の講演内容にも示されたヘーゲルの説いた「事自体」との違いに関する議論に興味を示している(本誌二〇一三年三月号)。
本稿ではまず、加藤氏の理論の背景となった竹田氏の「一般言語表象」について検討したい。その上で、〈第三項〉理論との違いを考えながら我々の読書行為を再検討し、〈第三項〉理論が拓く新たな「読み」の可能性を探っていきたいと思う。