厳しい言論状況のなか、大杉栄は文芸雑誌『近代思想』を発刊して、不合理な社会状況に背を向ける文壇に介入していった。そのなかで、相馬御風と行った論争は「個人革命即社会革命」をめぐり、大杉が「実行の芸術」という一元的立場であったのに対し、御風は「実行」と「文学」を分化させる二元論に立つ結果となった。大杉が待望する「労働者との一体感」を具現した作家に平澤計七がいる。彼も疑いなき一元的立場から創作した。
一九二〇年代後半から三〇年代前半にかけての「正統」とされる「プロレタリア文学史」を再編するには、当時、主流をしめたマルクス主義文学の観点からだけではなく、詩誌『赤と黒』などのアナキズム詩人たちの主張を検討する必要がある。彼らは、特定の組織や党によらない芸術の自立性を主張した。それは、二〇一〇年代における、世界的な広がりを見せる市民による民衆運動、すなわち「新しいアナキズム」に通じる思想内容となっている。
一九二六年に刊行がはじまった「円本」は、「標準語=文学」とみなす日本語規範の見本となった。以後、「正しい」「美しい」日本語の名のもとに、「文学」の序列と差別、検閲と言葉狩り、言語の矯正と調教が猛威をふるう。労働者や農民や女性や異民族の「汚い」「間違った」日本語を記述することから出発したプロレタリア文学は、標準語の序列や矯正や調教に抗い、その規範に錯乱をもたらす、反日本語、反標準語、反文学、反国語の運動にほかならなかった。本論では、プロレタリア文学における日本語批判の諸相に光をあてた。
プロレタリア文学運動の崩壊後、新たな《大衆》観を獲得した宮本(中條)百合子は、戦時下の激しい言論統制のなか、運動に殉じた文学者の家族を描いた“メタ・プロレタリア文学”ともいうべき作品を発表し、運動における《政治的優位性》を解体すると同時に、封建的イデオロギーに拠る女性観の危うさを剔抉する文学的試みをも達成している。なお、同時期に壺井栄も共通のモチーフの作品を生み、遺族の生き方から運動の内実を問う眼差しを織り込んでいる。無名の人々の生の重さを掬い上げる芸術的抵抗にこそ、プロレタリア文学運動の一つの可能性を見ることができるであろう。
二〇一〇年に没後刊行された井上ひさしの小説「一週間」は、ロシアの作家・リベディンスキーの「一週間」を想起させるものだった。後者については、宮本百合子も、多喜二も度々言及している。また日本では池谷信三郎、中国では戴望舒という、プロレタリア文学に共感を示しつつも、本来は第一次大戦後の「モダニズム」を志向する文学者たちによって翻訳・紹介されているという事実がある。その理由を考察し、井上の戯曲「組曲虐殺」創作との連動の可能性を探求する。
本稿では、同種の趣向が馬琴の読本・合巻を問わず利用され、相互利用が可能であるということを、「血合わせ」を手がかりとして明らかにする。
馬琴は、錦文流の浮世草子『棠大門屋敷』巻四の一「親の心子知らず」を典拠とする「血合わせ」を、自身の読本・合巻で度々利用している。それは、血筋の正統性を判別し、善悪を明断するという機能が、彼の小説観に適うものだったからである。