木下尚江の「火の柱」は、これまでキリスト教社会主義もしくは恋愛観という観点から考察されてきた。だが彼がジャーナリストであり、その立場から反戦小説を書いたという点は失念してはなるまい。本校の目的は「火の柱」が不特定多数の読者に向けて、彼らが最も理解しやすい言説形式、通俗小説の形を仮想しつつ、日露戦争が資本の独占を許し、多民族への暴力を肯定する帝国主義戦争であることを発信し続けたところに画期性を認めようとするものである。
本稿では、中野重治の転向問題を中心に議論されてきた転向五部作を治安維持法体制下における伏字問題とそれに対して模索された小説の方法の側面から考察する。とりわけ、小説家が小説を書く行為に加えられた制約そのものを小説化した「小説の書けぬ小説家」に注目し、「小説の書けぬ」状況に対して書く者と読む者が取り結ばれる現場を作り上げるために試みられた創作方法とその方法の批評性を明らかにする。
石川達三は、中央公論社特派員として、陥落後の南京にでかけ、京都第16師団津歩兵第33連隊の兵士に、直接取材した。凄惨を極めた戦闘では、婦女子への暴行や一般市民の虐殺などがみられ、達三はそれらの事実を小説「生きてゐる兵隊」のなかに描いた。しかしすぐに発禁処分となって、作家本人も新聞紙法違反に問われることになった。一九三〇年代の検閲の諸相を、中国の状況をふまえながら論述する。
戦時中に執筆禁止を命じられた宮本百合子の小説「その年」は、『文藝春秋』の編集者が内閲(事前点検)のため内務省へ原稿を提出したところ、銃後の母親の描き方が問題視されたため、掲載が見送られた。検閲官の夥しい書き込みが残るその原稿のなかから、特に二重にチェックが付された箇所を抽出すると、模範とされた「日本の母」とは距離のある母親像を描いた点が、当時の言論状況にそぐわなかったことが判明した。
金史良の日本語小説『郷愁』(一九四一)は、日中戦争期の〈内地〉メディアにおける朝鮮人認識の無知と無関心に抗おうとした作である。日中戦争には相当数の朝鮮人が参加し/させられていたが、〈内地〉での戦争の語りは、そうした朝鮮人たちを描く場合でも画一的な表象しか与えなかった。そんななかで『郷愁』は、屈折を抱えながら戦争にかかわっていく朝鮮人たちの複数の軌跡を書き込みながら、帝国の戦争に同調も同一化もできない、抑圧された者の側に立とうとする姿勢を定立してみせたのである。
日本近代文学におけるメディア検閲は、近年もっとも関心を持たれている研究テーマの一つである。第二次世界大戦の戦前・戦中・戦後を通じて文学活動を展開した作家は、内務省とGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の検閲と無縁ではなかった。本稿では、改造社編集者であった木佐木勝の日記を手がかりに、横光利一『旅愁』刊行の過程に照明を当てながら、アメリカ軍占領期事前検閲と改造社文芸出版とのせめぎ合いの一端を考察した。
花田清輝は一九三〇年代にファシスト政治家といわれる中野正剛が主宰する東方会に所属していた。これをもって吉本隆明は花田を「ファシスト」と呼んだ。一方で、偽装の抵抗として評価も受けている。戦時下の発言を戦後の文脈で読むことは難しい。本論考は、花田清輝が五〇年代半ばのアジアアフリカ独立運動の時期に、一九三〇年代のアジア言説を想起したことの意味を考え、そこからさかのぼって三〇年代の花田の文を再読する。