日本文学
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64 巻, 3 号
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特集・日本文学協会第69回大会(第一日目)
〈第三項〉と〈語り〉——ポスト・ポストモダンと文学教育の課題Ⅲ
  • ――「清兵衛と瓢簞」の授業から――
    山下 航正
    2015 年 64 巻 3 号 p. 2-13
    発行日: 2015/03/10
    公開日: 2020/04/07
    ジャーナル フリー

    「読むこと」とは自己の「読み」を読むことであり、その実現のために、自身の「読み」の検証を通して、そのように読んだ自身の認識を知り、作品や他の「読み」に撃たれることが必要である。〈第三項〉論に触れた発表者はこのように考え、学習者を自己の「読み」に向かわせるため、自身の「初読の感想」を再読させるとともに、物語の媒介者である〈語り手〉を相対化するための、「語り手が、何を、どのように語っているのか」あるいは「語り手が、何を語っていないのか」という発問とその考察を、実践で意識的に行ってきた。

    「清兵衛と瓢簞」の授業でもこれを踏まえつつ、清兵衛に寄り添う三人称の〈語り手〉という観点で展開したのだが、発表者の予想に反し、学習者の清兵衛に対する同情の意識が、授業を終える段階でも依然として高かった。また、最終的な学習者の「読み」を否定する意図はなかったものの、試みとして、既に詳らかにされている作品の成立事情や題材との相違について述べてみたのだが、状況は変わらなかった。先行研究で指摘されている、清兵衛の才能への疑義という問題を提示していたとしても、おそらく結果は同様であったと思われる。

    このような学習者の「読み」の生成に働きかけたものが何であったのか、授業における学習者の感想を整理・分析し、明らかにしていく。加えて、自身の実践を振り返り、文学作品の〈語り〉を活かす授業のあり方についても考察する。「読み」の問題に限らず、文学作品の教材化や文学作品の評価等、同時に浮上してくる諸問題も可能な限り視野に入れつつ、〈第三項〉論の可能性を探りたい。

  • ―― 川端康成の《実録的犯罪小説》・「散りぬるを」を中心に ――
    山中 正樹
    2015 年 64 巻 3 号 p. 14-28
    発行日: 2015/03/10
    公開日: 2020/04/07
    ジャーナル フリー

    田中実氏の〈第三項〉論については、分りにくいという批判が寄せられることが多い。しかし〈第三項〉論は、ポストモダンによって不可知とされ、それゆえ議論の埒外に放り出された世界、あるいは、私たちの読書行為は「一回限りの永遠の誤読」であり、テクストの〈読み〉や〈意味〉を問うことなど不毛であるとする考え方から、〈世界〉の存在を、そして〈文学〉を〈読み〉〈学び〉〈教える〉ことの意義を奪還する(現在のところ)唯一の方途であると論者は考えている。

    こうした立場から本稿では、「〈第三項〉と〈語り〉」という観点から文学作品を読むことで、なにが明らかになってくるのか。また〈第三項〉が、具体的に文学作品とどのように関わっているのかを、川端康成の《実録的犯罪小説》と称される「散りぬるを」の〈語り手〉である〈私〉の位相を分析を通して考察し、本作が知覚や認識の「主体」とその主体の意識に映じた「客体(の影)」と、それを生み出す源泉である「客体そのもの」という〈第三項〉を描こうしたものであったことを明らかにした。

  • ―― ナラティヴ・アプローチの視点から ――
    野口 裕二
    2015 年 64 巻 3 号 p. 29-35
    発行日: 2015/03/10
    公開日: 2020/04/07
    ジャーナル フリー

    私の専攻する社会学の領域や広く社会科学、臨床科学の領域では、90年代から「物語論的転回」が起こり、「ナラティヴ」をキーワードとする多くの理論的実践的試みが行われてきた。なかでも、社会構成主義を背景とするナラティヴ・アプローチは、ポストモダニズムに強く影響されながらもニヒリズムへと向かうのではなく、むしろ現実の相対性を積極的に活用する実践理論として進化を続けている。

    「ポストモダンと文学教育の課題」というテーマの背景には、「作者の死」の宣告にもかわらず、「正解」を想定せざるをえない国語教育の現状、つまり、ニヒリズムとアクティヴィズムの相克があるという。しかし、ポストモダニズムを「記号の戯れ」や「ニヒリズム」に矮小化する必要はない。記号や差異の恣意性を認めたうえで、それでもなお、われわれは「物語」を必要としていること、社会は「物語」という形式なしには存立しえないことに目を向けるべきであろう。ナラティヴ・アプローチはそこから出発する。

    こうした視点に立つとき、文学教育はこれまでも重要な役割を果たしてきたことがわかる。それは、さまざまな物語の形式に触れ、生き方のレパートリーを増やすこと、意味が生成するさまざまな場面に関する想像力を豊かにすること、そして、人生という「正解」のないものと向き合うとき「物語」という形式が大きな支えになることを教えてきたはずである。人生も社会も「物語」という形式なしには存立しない。「物語」のもつこうした強大な力を伝えることが文学教育の重要な役割のひとつであると思われる。

  • 喜谷 暢史, 中村 龍一
    2015 年 64 巻 3 号 p. 36-56
    発行日: 2015/03/10
    公開日: 2020/04/07
    ジャーナル フリー
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