日本文学
Online ISSN : 2424-1202
Print ISSN : 0386-9903
64 巻, 8 号
選択された号の論文の13件中1~13を表示しています
特集・第三項と〈世界像の転換〉――ポスト・ポストモダンの文学教育
  • 田中 実
    2015 年 64 巻 8 号 p. 2-14
    発行日: 2015/08/10
    公開日: 2020/08/29
    ジャーナル フリー

    『寒山拾得』は絶大な権力を持つ新任の地方長官閭丘胤が「痩せて身すぼらしい小男」の寒山と拾得のことを文殊と普賢だと聞かされていたため、大仰で丁重なあいさつをし、二人に手ひどく拒絶される話です。〈語り手〉は閭丘胤の「盲目の尊敬」では何もならぬと言いますが、しかし、何故、「盲目の尊敬」では何もならないのでしょうか。この作品をお話のレベルで読むのでは、これに応えることは出来ません。すなわち、〈近代小説〉をお話=物語の表層のレベルで読むのでなく、そうさせている世界観認識、世界解釈を読む、これがわたくしの立場です。と言って、事態は極めて難解です。

    『附寒山拾得縁起』の末尾には「実はパパァも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」とあり、もし拝む人がいれば、「パパァ」も「文殊」=「仏」になるのだと言っているかに見えてそうではありません。パパァは宮崎虎之助さんとは違います。拝む人がいても、いなくても、「パパァも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」と言っているのです。捉えている客体の対象は主体によって決定されるのではないからです。そうであれば、「盲目の尊敬」である閭丘胤も否定されることはありませんでした。

    では、客体そのものを誰が捉えられるでしょう。客体そのものは未来永劫、永遠に沈黙したまま、誰も捉えられないのです。だから、ナンデモアリの相対主義、アナーキズムになるしかないのではないか、と言われれば、そう見えて、これを否定せざるを得ません。その論理は唐突ですが、「イスラム国」の攻撃を排除できないからです。自身が直接身近に攻撃されれば、誰でもその論理の過ちに気付きます。「神々の闘い」を目の前にして考えましょう。この『寒山拾得』の〈語り〉はそうした二元論を斥け、「盲目の尊敬」を唾棄しているのです。

    どの学問芸術、宗教も深く読んで考えると、その主客相関の〈向こう〉に「道」がある、『寒山拾得』の〈語り手〉はそう言っているとわたくしは読みます。これを語る方便(物語)の底に「道」を語る〈語り〉が働いています。

    鷗外の〈近代小説〉はむしろポスト・ポストモダン、〈明治〉と刺し違える程に殉じ、責任を負っていたのですが、『寒山拾得』はその置き土産、仕上げのようなものです。

    念の為に言っておきましょう、ここで言うモダンは捉えた客体の〈向こう〉に実体がある実体論、ポストモダンはこの実体を斥けた関係論、ポスト・ポストモダンは両者を斥けた第三項論です。「道」とは私見では〈宿命の創造〉のことです。

  • 難波 博孝
    2015 年 64 巻 8 号 p. 16-31
    発行日: 2015/08/10
    公開日: 2020/08/29
    ジャーナル フリー

    人文科学全体が退却戦を余儀なくされるなかで、文学教育が戦場(市場)を 占拠できるための合言葉はF(関数)である。Fとは、客体そのものを主体に影として映し出すための、主体の作り出す関数である。客体そのものは当然のことながら永遠に捉えられない。Fは永遠に影を生み出す。このFの機構を見ることが文学研究であり、Fの力を育てるのが教育実践である。Fは主体の生み出すも のでありながら、関数であるから、主体外に晒され続ける。

  • ―― 教室における〈語り〉入門としての源氏物語 ――
    斉藤 昭子
    2015 年 64 巻 8 号 p. 32-41
    発行日: 2015/08/10
    公開日: 2020/08/29
    ジャーナル フリー

    古典を教室で扱うとはどのようなことであるのか。この古い問いは今こそ問い直されてよいはずだ。授業者の側にある「正解」を伝えさえすれば古典の授業は終わり、ではなく、読みの問題へ接続するために、まずは物語研究と国語教育部会が蓄積してきた方法を架橋していくことが有効であると考える。教科書に採られている源氏物語の冒頭を始め帚木三帖などを主に扱い、古典ならではのことばの仕組みを通してひらかれた読みへつなげる実践とその理論的支柱を考察した。

  • ―― 「第三項理論」により『夢十夜』「第一夜」を「読む」 ――
    小山 千登世
    2015 年 64 巻 8 号 p. 42-52
    発行日: 2015/08/10
    公開日: 2020/08/29
    ジャーナル フリー

    客体とは主体にとらえられたものであるならば、主体の変化は世界の変化をもたらす。故に〈語り〉を顕在化させ、作品と主体との格闘と、主体の倒壊こそ「読むこと」であるとする「第三項理論」は読み手の世界観認識を転換させる。「第三項理論」による『夢十夜』「第一夜」の読解から見えてくる〈語り手〉を通して、「読むこと」が世界観認識の転換をもたらす文学教育を目指し、混迷する日本社会の「読み手」「担い手」を育てたい。

  • 三輪 民子
    2015 年 64 巻 8 号 p. 54-65
    発行日: 2015/08/10
    公開日: 2020/08/29
    ジャーナル フリー

    小学校における文学の読みの第一義に、一人ひとりの自由な読みの保障をあげる。このことを抜きにして、読みを成立させる出会いはないと考える。子どもの自由な読みは恣意的とは限らず、教室における他者の読みとの交流によって深化する。「第三項」論は、その際の読みの根拠を考える上で示唆に富む。教材の持つ力を今一度問い、作品と読み手との相互の働きかけを構築する。それは、子どもと文学が息づく授業を目指すものである。

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