日本文学
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65 巻, 3 号
選択された号の論文の11件中1~11を表示しています
特集・日本文学協会第70回大会(第一日目)第三項と〈世界像の転換〉――ポスト・ポストモダンの文学教育
  • ――何故(Why)という問い――
    坂本 まゆみ
    2016 年 65 巻 3 号 p. 2-14
    発行日: 2016/03/10
    公開日: 2021/04/17
    ジャーナル フリー

    ある生徒は「どちらかといえば狐の方がすき」から土神を心配する樺の木を読んだ。樺の木に主体性を読みたかった稿者には、肯首できるものだった。それを受けて、稿者は、樺の木は土神の苦悩を一身に受け止めていると読み「二人の友達に対して、異なるものを求めていたのではないか」と考えた。人間関係の多様さと複雑さとが可視化されているような教室空間にあって、恋愛に限らない関係性を「土神と狐」に読むことは可能だと思えた。確かにどのようにでも読める。しかし、自分の価値観に合わせて読むことは自閉することである。「べらべらした桃いろの火でからだ中燃やされている」土神から「恋愛」を脱色した読みに陥り破綻した。主体性がないと言われることを怖れる稿者自身が晒された。樺の木をどう読むのか、生徒の読みが促してくれた課題である。

    授業後に考えたことを中心に、「衝動的殺人」とされる「狐殺害の必然性」を探ってみたい。「嫉妬と憎悪」ではストーリーを読んだにすぎない。ではその「内的必然性」とは何であったのか。〈語り手〉は語りながら物語と格闘している。〈語り手〉は登場人物の悩みを一緒に悩んでいる。「読む」とはその悩みを聴き、正解のない問いを共に悩むことではないか。〈語り手〉も読み手も「わたしのなかの〈他者〉」問題から逃れることはできないからである。

  • ――合言葉はF 続き――
    難波 博孝
    2016 年 65 巻 3 号 p. 15-27
    発行日: 2016/03/10
    公開日: 2021/04/17
    ジャーナル フリー

    私は、二〇一五年八月号で「合言葉はF」という題目の文章を書いた。Fとは関数のことである。私たちは、私の内部や外部のものと出会った瞬間、さまざまなFの関数を掛けている。その出力を私たちは「そのもの」と信じている。Fは関数の象徴であり、人により状況によって、そのFの構成関数は変わる。こういうことを書いた。

    このことをふまえて、今度は教育のことについて考えたい。文学の授業が行われる場所では、教師・ある学習者・他の学習者・学習者集団・教科書・文学作品・作者・語り手・登場人物・教室・学校・教科書編集者・教科書会社・国家・地域社会・家庭・などなど、恐ろしいほどの数の、それぞれの関数が錯綜する。そのなかで、文学を使って、教育をするということはどういうことか、考えたい。

    ヒントは、Fの力、である。私が、あるものと出会った瞬間にFという関数を掛けるのだが、その関数を掛ける前、掛けている最中、掛けた後の、その姿は、見られている。具体的には、私があなたと話をしている時、あなたの話を聞いて(そのもの)、その瞬間に自分の関数(F)を掛け、関数をかけた後の出力を私が受け止めている時、その全ての様子(相貌)を、あなたは見ている、ということである、恥ずかしいことに。言い換えれば、わたしとFとのやりとりが、あなたに何らかの影響を及ぼすということである。ここに私はFの力をみる。ここに、教育のヒントがあると、私は信じている。

  • 野矢 茂樹
    2016 年 65 巻 3 号 p. 28-37
    発行日: 2016/03/10
    公開日: 2021/04/17
    ジャーナル フリー

    前半では私の哲学的立場である相貌論の輪郭を述べる。世界は相貌をもち、相貌は物語に依存する。そして私たちは一人ひとり異なる物語を生きている。この物語の重層性は相貌の重層性となる。それを私は世界の「ポリフォニー的構造」と呼ぶ。後半ではその哲学的背景のもとで相貌に注目した小説の読み方として「相貌分析」を提唱する。具体的に宮沢賢治の「土神と狐」を例に取り、相貌分析によってどのように読めてくるかを示したい。

  • 大谷 哲, 喜谷 暢史
    2016 年 65 巻 3 号 p. 38-59
    発行日: 2016/03/10
    公開日: 2021/04/17
    ジャーナル フリー
子午線(大会印象記)
  • ――垂仁記・仲哀記の「御子」表記をめぐって――
    吉田 修作
    2016 年 65 巻 3 号 p. 68-77
    発行日: 2016/03/10
    公開日: 2021/04/17
    ジャーナル フリー

    ホムチワケとホムダワケは、日本書紀では垂仁紀と仲哀紀、神功皇后紀、応神紀は全く接点が見出し難いのに対して、古事記では垂仁記と仲哀記でともに「御子」と記述される。ただ、ホムチワケが御子でありながら即位せずに消えていくのに対し、ホムダワケは御子から成人となり新たな王として即位し、後の王権の始祖ともなるという正反対の位相も有する。記紀における差異としては、垂仁記で口のきけない御子ホムチワケは出雲大神の祟りを受けたことが判明して出雲大神祭祀を行い、仲哀記では、御子ホムダワケはアマテラスの託宣によって即位が保障される。前者が出雲大神、後者がアマテラスと関わるという点で対照され、それは、ある面で神代記の国譲りに引き続く天孫降臨という流れに対応している。古事記でその二人の御子は、連続と非連続の二つの位相を有し、その結果が新たな王権の樹立と後の王権に継承されていく結節点を担っているように記述されていると言える。

  • ――犯罪ジャーナリズムにおける「江戸川乱歩」と「浜尾四郎」の表象をめぐって――
    井川 理
    2016 年 65 巻 3 号 p. 78-90
    発行日: 2016/03/10
    公開日: 2021/04/17
    ジャーナル フリー

    本稿では、一九三〇年前後の犯罪報道に多様な形態で召喚された探偵小説ジャンルが、善悪の境界を揺れ動く両義的な位相に置かれていたことを明らかにし、その具体的な事例として玉の井バラバラ殺人事件の報道言説をめぐる江戸川乱歩の表象を検討した。さらに、犯罪ジャーナリズムにおいて乱歩とは異なる位相に置かれた浜尾四郎の表象と、その後の実践との連関の分析を通じて、個別のテクストとメディア環境との往還運動として現出するジャンルの動的な様態の一端を示した。

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