「物語音読論」以降、『源氏物語』では作中の女房(たち)の見聞にもとづく口頭の「語り」が筆記・編纂されている、という一種の物語生成の機構が読みとられてきた。しかし、それは「蓬生」巻のように典型的なケースにもとづく推論であった、たとえばその次の巻、「関屋」に注目してみると、「語りnarrative」に関しては「蓬生」と対照的な性格が際だっている。さらに「関屋」巻の巻末の言葉にも注意して、『源氏物語』のつくられた「語り」と、その実験的な叙述の一端を明らかにする。
物語世界は物語文の原因として作られ、同時に物語文は物語世界を原因として作られたものと想定される。従って物語文が物語世界の次元に対して第二次の位置づけとなる局面が考えられる。その時、物語文は自己同一的なものではなく、媒介され引用されたものと見なされる。小川洋子の「ハキリアリ」および「トランジット」を例として、語りによる媒介の局面をとらえてみる。語りこそ、言語の〈トランジット〉(乗り継ぎ)にほかならない。
魯迅の『故郷』は日中両国で半世紀以上読まれた名作である。本論の前半では『故郷』をめぐる藤井省三と田中実の読みを比較検討し、世界観認識の違いが「読み方」に決定的な違いをもたらすことについて論じた。田中実によって展開されている第三項論は「語ることの虚偽」との闘いを内包しており、それによって〈近代小説〉を〈近代の物語文学〉から峻別できる。『故郷』の場合は、〈語り手〉の「私」を相対化する〈語り手を超えるもの〉を読者が構造化することが必須である。また、第三項論の方向性はテクスト概念の提起以後、さらに転換していったバルトの理論の方向性に極めて近いと私には思われる。そのため本論の後半では『明るい部屋』というバルトの最後の著作を取り上げて、田中実との間にある相同性についても論じた。
『四条宮主殿集』は、一一世紀後半に成立したとおぼしい女房家集である。先行研究は仏教方面に偏重しがちであったが、本稿は歌集における恋の遍在の指摘と、当時の文芸圏との関わりを論じた。『主殿集』は前半後半ともに恋の要素を多分に有し、出家事件等は主家である寛子の周辺の読者の興味関心を惹いたであろうこと、家集の成立には主家からの求めや、主家周辺の歌集重視の機運が関わっていたであろうことを指摘した。