二〇二二年度から実施される高等学校新学習指導要領の科目編成、とくに必履修科目となった「現代の国語」をめぐる問題について考察することから、逆説的に見えてくる「文学の意義」を探り、さらに、私たちはどのような意識で「これからの文学教育」に臨むべきかについて考察を試みた。また、高校教科書のなかの古典文学の問題点を指摘するとともに、古典文学を学ぶ意義についての私見を述べた。
あらゆる読解方法は外在的であると共に内在的であり、唯一の方法はない。本稿では人/他者との関わりを重視する指導要領をふまえコミュニケーションフレームを採用する。小川洋子『海』は、トリガーとターゲットからなる隣接的な接続、その接続をもたらす人物・場がとどまる滞留、同じ立ち位置・役割を担い同じ対象に注意する共同注意から構成されている。これは可能な読解の一つであるが、決定できないものを過度に決定・一義化することは読殺として批判されねばならない。
本稿では、限定された文学作品を何とどのように接続することで、文学あるいは文化全体と有機的な関連をもたせて理解することが出来るかについて、文学展「浅草文芸、戻る場所」(二〇一八・九・一~一〇・六、日本近代文学館)での営為を踏まえて問題提起をする。美術教育の事例を踏まえ、散策型鑑賞教育としての展覧会の可能性について、文学教育の新たな可能性をひらくものとして、加藤周一の文学の定義を援用しつつ論及する。
国語総合において村上春樹「鏡」を教材としておこなった授業の実践報告。授業は、『第三項理論が拓く文学研究/文学教育』(明治図書)所収の「『鏡』の授業構想」(難波博孝)を参考に、謎解きと対話を中心におこなった。授業の後に生徒たちが書いた感想を手掛かりに、授業で起きたことを検証した。また、本授業と新学習指導要領「言語文化」の「目標」とを照合し、現在の教育改革における文学教材のありようについても考察した。