スサノヲの神格の変貌を成長と捉える論も見られるが、神話の論理においては成長という概念は適切とは言えない。スサノヲの神話は、アマテラスの天石屋戸隠りやオホナムチの「根の堅州国」訪問などを参照すれば、成長という一方向ではなく、死と復活という神話的観念を基盤としていると読むべきである。即ち、スサノヲはアマテラスの死と復活の神話に関与するとともに、「根の国」への「神やらひ」と出雲などへの降臨によって死と復活を体現し、出雲での御歌もその延長線にある。スサノヲの御歌は古今集仮名序などで和歌の起源とされるが、そこで参照されるのは古事記と日本書紀の双方からである。従って、本稿では古事記と日本書紀の差異を見定めつつも、その両書を横断する形でスサノヲに対する神話的観念を明らかにするというのが目論見である。
これまで作者蘆花の自伝的作品として理解されてきた「思出の記」を、同時代受容を補助線として検討すると、これまで見過ごされてきた作品の方法が明らかになった。作中の「僕」は、様々な偉人伝を読み自身に重ねながら立身を目指していく。しかし物語後半からは、偉人ではない人々の「歴史」も語る・書く・読むに値するという確信を得ていく様が描かれている。「思出の記」は、同時代的状況を反映した読むことと書くことをめぐる物語でもあった。
谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』は、個人が他者と交換可能な存在になってしまうという大衆社会の問題に対する一つの応答として読むことが可能である。この問題に対して同作は、ありふれたものを肯定するための二通りの方法を示している。一つは、個人を「馴染み」であることによって交換不可能と考える方法であり、もう一つは、一般的な説明に還元することのできない個人の絶対的固有性を肯定するという方法である。この二つの方法は、自己との関係の有無という点で区別されるものである。
「教科書が読めない子どもたち」に文学をどのように教えればよいのか。一つの方法は「文化の共有」である。文化とはその共同体における共通の認識であり、文学などを読む際の予備知識となるものである。作品に盛り込まれた文化を共有することで、他の文章を読む際の予備知識を身に付けることができる。
また、文脈を丁寧に読むことによる解釈も重要である。読解力を付けるとともに、生徒の想像を超えた世界が立ち上がり、文学を読む楽しさを味わうことに繋がるからである。
ここに文学教育の目的があると考え、村上春樹「鏡」の授業実践から論じる。