日本近代文学
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106 巻
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《特集 文学史はどこから来て、どこへ行くのか》
  • 金子 明雄
    2022 年 106 巻 p. 2-17
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    文学史について考えることは、それが必然化する物語によって表象される文学研究者の認識枠組を明らかにするばかりでなく、文学研究者の根源的な欲望を浮かび上がらせる契機ともなる。近代日本は文学史の黄金期を二度経験している。一度目は、明治後期の国文学の形成期であり、二度目は、戦後の日本近代文学研究の成立期である。いずれも、高等教育機関における専門的研究者の養成と文学(史)教育のための教材出版・資料整備との連動が見られるが、戦後の場合、文庫・新書・文学全集のブームなど、より広汎な文学大衆化の波と重なって、近代文学(純文学)の社会的評価の高まりと連動したために、近代文学についての批評や研究を制度化する強い力として作用した。

  • ──「近代」概念の憑在論化について──
    佐藤 泉
    2022 年 106 巻 p. 18-33
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    近年では歴史意識が欠如したままでの文化の受容が進んでいるが、文学の維持には文学史を参照することが必要だと思われる。ただ従来の文学史に問題がないわけではない。本論では、文学史の叙述秩序の変容について、1前後近代論前史、2近代主義とアジアの近代、3反近代主義の文学史、4経済成長の近代、5丸山真男『日本の思想』、6柄谷行人、7日本のポストモダンの順で概観し、日本の近代という文学史的なテーマがくりかえし「いまだない」「もはやない」という二つの不在の間で漂ってきたことを検証する。不在の近代は「亡霊」のように文学史に憑りつき、またそこからさらに他の亡霊たちの再来を促すことになる。

  • ──主体と非主体とのあいだ──
    永井 聖剛
    2022 年 106 巻 p. 34-49
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    文学テクストの作中人物は〈穴〉を潜ってあちら側に赴き、そうすることによって主人公となる。また同時にこのとき、三人称で語られていた物語言説は、おのずから一人称的──自由間接話法的な文体への変成を遂げる。どうしてこんなことが起こるのだろうか。本稿は、『浮雲』『蒲団』『羅生門』『屋根裏の散歩者』『雪国』などにあらわれた〈穴〉と、それに伴って現象した「話法の転換」とに着目しながら、日本近代文学における自由間接話法的な文体生成の歴史的意義もしくはその蓋然性について考察するものである。この試論を通じて、「作家」や「聖典」に拠らない文学史、すなわち間テクスト的な表現史・文体史記述の可能性についても問題提起をおこなってみたい。

  • 中根 隆行
    2022 年 106 巻 p. 50-63
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    文学史は、加藤周一『日本文学史序説』のように、従前の文学史に対する批判的営為として書かれる。本稿は、一九五〇年代から六〇年代にかけて、植民地文学や旧植民地にルーツをもつ作家の日本語文学がどのように把捉されたのかを、文学史的な試みとして検証する。一九五〇年代になると日本人が「被圧迫民族」に転じたという認識が共有され、戦前の植民地文学や在日朝鮮人文学への関心が高まる。一九六〇年代は、それが方法論として鍛えあげられる時代である。本稿では、このような経緯を中野重治「被圧迫者の文学」や鶴見俊輔「朝鮮人の登場する小説」などを検討しながら、戦後における植民地文学と文学史的な試みについて論じる。

  • ──戦後国語教育と文学史への視点──
    千田 洋幸
    2022 年 106 巻 p. 64-79
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    一九五〇年代の高校国語教科書には、敗戦直後のGHQ主導による新教育の反動により、多くの文学史教材が収録されている。それらは敗戦によって断絶の危機に見舞われた日本の「伝統」「民族」を文化の面から再構築することを目指していた。しかしその多くは近代文学の後進性・特殊性と西欧文学に対する劣等感を表現するもので、国語教育者が自己の戦争責任への直接的な追及を回避するため、欺瞞的な自己批判を行ったにすぎなかった。この意味で、文学史教材は「歴史からの逃亡」の産物といえる。国語教育におけるこの非歴史的な態度は、贖罪を乞う主人公が登場する文学教材を呼び寄せ、また一方では「文豪」が活躍するコンテンツのヒットを招き寄せるという皮肉な結果をもたらしている。

  • ──本多秋五「文芸史研究の方法に就いて」論──
    木村 政樹
    2022 年 106 巻 p. 80-95
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    本稿では本多秋五「文芸史研究の方法に就いて」について、文芸の「評価」をめぐる議論を中心に考察した。文芸の「評価」とはなにかという問いは、現在においても解決していない問題であり、こうした視座からみれば、本多の文芸史論は人文社会科学という知について考えるうえで今もって重要である。本多は文芸史に「評価」が必要であると唱えたが、それは「歴史」のなかに複数の「可能性」を探ろうとするものであった。本多はプロレタリア文化運動における「実践」の問題として「評価」を捉えながら、このような文芸史研究のあり方について思考していたのである。

論文
  • ──戦時下の小林秀雄における歴史表象──
    山本 勇人
    2022 年 106 巻 p. 96-111
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    小林秀雄は、日中-太平洋戦時下、〈歴史〉の主題と対峙していた。そのなかで生まれた「歴史について」(一九三九)、「無常といふ事」(四二)、「実朝」(四三)などの作品は、小林の代表作として長く読み継がれてきた。一方で、それらの諸作は、作者自身の「黙つて処した」という発言とも相まって、戦争の進展と共に言葉を失い〈沈黙〉に向かう、批評の後退とも重ねられてきた。本稿は、これらのテクスト群を、一九三八年の二度の中国体験における〈死者〉との出合いにおいて展開した、〈哀悼〉の主題の下に読み替える。さらに、哀悼と文学が結合するオルフェウス神話の構造を参照することで、言葉の不在としての〈沈黙〉から、異なる言語行為としての《沈黙》への変容を明らかにする。

  • ──典拠と「神秘的な恐怖」を手掛かりに──
    松原 大介
    2022 年 106 巻 p. 112-127
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    本稿は、民話〈髪剃り狐〉を典拠とすることが指摘されている内田百閒「短夜」について、典拠と比較検討することで、日記に記されている「神秘的な恐怖」が如何なる形で表現されているかを問うものである。日記帖に記されていたのは、「子供」を巡る同時代的な言説の中で忌避されていた「恐怖」に満ちた「空想」を現実感をもって表現するという発想であり、「短夜」はその小説としての結実だった。「私」の現在時的一人称の語り、感覚的描写の導入、罪悪感の強調、恐怖感の投影といった「私」の際立ちを特徴とする作品である「短夜」の結末は、狐の捉え難さに満ちた「神秘的な恐怖」を「私」の体験として鮮やかに描き得ていた。

  • ──大岡昇平「ミンドロ島ふたたび」をめぐって──
    金子 聖奈
    2022 年 106 巻 p. 128-143
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    本稿では大岡昇平の「ミンドロ島ふたたび」における、戦友の「弔い」に〈フィリピン〉という他者を織り込むプロセスを考察する。視点人物「私」は戦友を弔うためフィリピン・ミンドロ島の「ルタイ高地」への再訪に執着するが、自筆原稿等によれば、「ルタイ高地」はあらゆる「地図」に存在しない私的な呼称である。「私」の語りは〈フィリピン〉を俯瞰する「地図」を描くように空間の認識を構成していくが、フィリピン人との邂逅により、相手の認識する〈フィリピン〉とのずれを思い知らされ、「ルタイ高地」での「弔い」も未遂に終わる。そこで「私」は、確定的な位置づけを拒む「ここ」という地点に立ち、戦友の死と〈フィリピン〉を不可分に想起する「弔い」を生起するのである。

  • ──亡命作家・邱永漢の「日本語」と「英語」──
    和泉 司
    2022 年 106 巻 p. 144-159
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    邱永漢は台湾出身の日本語文学作家として知られている。香港亡命から日本へ移住した邱永漢はアメリカ留学を希望していた。邱永漢は「日本語」ではなく「英語」を使って生きていく選択肢も探していたのである。そして直木賞受賞後も台湾問題に関する英語評論を発表し、世界へ訴えた。その内容は日本向けに書かれた評論と比べ、台湾の独立性を強く訴えていた。しかし日本国内では台湾問題というテーマは歓迎されず、邱永漢のテーマは「経済」に限定されていった。それでも「日本語」によって生き続け、後半生ではアジアまで活動を拡げた邱永漢の活動とテクストから、「日本語」の文化・文学が得られるものは大きい。

  • ──野田宇太郎からウィキペディアタウンへ──
    岡野 裕行
    2022 年 106 巻 p. 160-175
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    野田宇太郎は一九五〇年末に文学散歩を考案し、東京のまちを皮切りとして、全国各地の「近代文学の足跡」を訪ね歩いた個人的記録を書き始め、関連著作を継続的に刊行した(第一の文学散歩)。その後、野田の文学散歩を模倣したような案内記の出版が続くようになった(第二の文学散歩)。また、ウィキペディアタウンというまち歩きと絡めた編集イベントが開催されるようになると、それが文学散歩の理念とも重なるようになった(第三の文学散歩)。今日における文学散歩は、「歩く」「書く」という取組みの先に、文学を「語る」ことをも視野に入れながら、ウィキペディアという仕組みを通して、「記憶のコミュニティ」をつくり合う「私たち」の活動へと変化している。

資料室
  • 大原 祐治
    2022 年 106 巻 p. 176-183
    発行日: 2022/05/15
    公開日: 2023/05/15
    ジャーナル フリー

    本稿は、敗戦直後における佐多稲子関連資料二点(書簡および随筆)を紹介するものである。書簡は、佐多が一九四五年八月一三日に群馬県前橋市在住の友人である茜ヶ久保奈美に書き送ったもので、内容は直前にあった前橋空襲(八月五日)を知った佐多が旧友の安否を気遣うものである。随筆「友達への手紙」は、茜ヶ久保を中心に刊行された地方文芸誌『吾嬬』の創刊号(一九四七年七月)に掲載されたもので、その内容は女性が積極的に表現活動へ携わることの意義を語るものである。それぞれ全文を紹介し、茜ヶ久保と佐多との交友について説明した。『吾嬬』はプランゲ文庫にも所蔵がなく、その内容については従来あまり注目されていなかったものだが、こうした雑誌に注目することで、地方における戦後文化運動を支える様々な人脈が浮き彫りになる。用紙不足の時代に劣悪な紙質で刊行された地方雑誌に関する調査研究は急務である。

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