日本考古学
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2 巻, 2 号
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  • 表裏縄文系・撚糸文系・室谷上層系・押型文系土器群の関係
    宮崎 朝雄, 金子 直行
    1995 年 2 巻 2 号 p. 1-36
    発行日: 1995/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    縄文時代早期前半に位置する関東地方の撚糸文系土器群は,並行する他地域の土器群が不明であり,精緻さを誇る縄文土器編年網において現在もなお孤高の存在である。この理由として,地域における資料の多寡に伴う研究状況の違いが一因としてあるが,撚糸文系土器群を含めその前後の表裏縄文系,室谷上層系,押型文系土器群が,文様として特異な回転文様を主体とする土器群である点に主な原因が存在する。本論は,これらを回転文様系土器群として大きく捉え,回転文様の特異性に視点を置いて分析する事により,回転文様系土器群の変遷を把握し,広域編年網を確立する事を目的としている。
    回転文様の特異性は,施文具×施文手法=文様効果の図式に示される3要素の一体的な関係にある。施文具と施文手法の組み合わせにより色々な文様・文様帯が作られ,意図する文様効果を得るために新しい施文具の開発が促され,回転という施文手法がそれを助長している。回転文様の起源について分析を行った結果,縄文→縄文・撚糸文→押型文第1製作段階→押型文第2製作段階→沈線文への変遷が把握でき,この変遷において文様効果が施文具形態文様中心から方位形態文様中心へと移行する文様発達過程を窺う事ができた。また,回転文様の文様性を積極的に評価し,文様構成と文様帯の構造から,表裏縄文系,撚糸文系,室谷上層系,ポジティブ押型文表裏施文系・全面施文系・帯状施文系,ネガティブ押型文全面施文系の地域的土器群の系統を把握した。
    これらの分析を基本にして,回転文様系土器群を,I期―表裏縄文系土器群成立期,II期―撚糸文系土器群成立期,III期―押型文系土器群成立期,IV期―沈線文系土器群成立期に区分し,さらに,II期・III期はa・b・cに,IV期はa・bに細分し,各期における各地域土器群の様相を検討しながら回転文様系土器群の流動的変遷を示し,最後に広域編年網をまとめ提示した。
    回転文様系土器群は,縄文土器の器形,文様発達及び文様帯形成において過度的位置にある。また,縄文文化の形成においても,この時期は縄文文化の原型が作られる重要な時期であり,広域編年網の確立が早急に必要なのである。
  • 谷井 彪, 細田 勝
    1995 年 2 巻 2 号 p. 37-67
    発行日: 1995/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    東日本の縄文時代中期終末から後期にかけては,関東での急激な集落規模の縮小,柄鏡型住居(敷石住居を含む),東北での複式炉をもつ住居の出現,住居数の増加など,縄文時代でも最も栄えたとされる中期的社会から後期的社会へと大きく変貌を遂げる。
    土器群も隆帯が文様描出の基本であった中期的な土器から,磨消縄文が卓越する後期的土器へと変っていく。しかし,関東と東北では大木式,加曽利E式などのように共通的文様要素がありながら,その構成で異なった土器が分布する。これは住居跡形態でみられたような差と同じような差ともいえる。後期への土器の変化もそれぞれ独自な展開をしているため,両地域土器群の平行関係は関東,東北の研究者間にずれがあり,共通した認識が得られていない。
    この原因は,編年的研究の方法及び型式理解の混乱に起因している。我々の編年的研究の目的はまず型式学的細分があるのではなく,住居跡出土土器を基本単位として,それぞれ重ね合わせ,さらに型式学的検討を加えて有意な時間差を見出そうとするものである。本稿では関東,東北で異系統とされる土器を鍵として,両地域の土器群の平行関係を検討した。
    その結果,従来関東の中期末の確固とした位置にあるとされた加曽利EIV式が段階として存在せず,加曽利EIII式後半と称名寺式段階へと振り分けて考えた方が,合理的に解釈できることを明らかにした。また,東北で加曽利EIII式後半に平行する土器群として関東の吉井城山類の影響を受けた,いわゆるびわ首沢(高松他1980)類の出現段階が挙げられ,多くの研究者が大木10式とする横展開のアルファベット文の段階は,後期称名寺式出現期に平行するとした。
    また,本稿で取り上げた類が決して固定的でないことを明らかにするため,吉井城山類,岩坪類について,各種の変形を受けて生成された土器群を紹介し,相互の関係,時間的展開を通して土器群の実態を検討した。関東と東北の関係でみれば,全く異なるようにみえる土器でも,相互に共通した要素がうかがえ,交流の激しさ,それぞれの地域の独自性を知ることができる。また,関東地域での地域性についても同様なことがあり,このような地域間の差異こそ縄文人の独自性と創造性,人々の交流の結果であり,そこにこそ縄文人の生き生きとした姿を垣間みることができる。
  • 北部九州弥生時代中期後半墓地の一例の社会考古学的検討
    溝口 孝司
    1995 年 2 巻 2 号 p. 69-94
    発行日: 1995/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    これまでの弥生時代北部九州の『集塊状』甕棺墓地/墓域に関する研究視点は,埋葬集塊単位(グループ)をまず析出し,それらを世帯,家族といった特定規模・内容の集団と結びつけることを出発点として,社会類型・発展論へと展開してゆくことをその基本的枠組みとした。このような研究枠組みに対して,小論では,墓地空間構成形成過程の微細分析の手法を用いて,以上のように分析解釈されてきた一集塊単位の内部に分析のメスを入れた。
    その結果,1)集塊単位内部にさらに,『埋葬系列』とも呼ぶべき単位が存在すること,2)それらは単純に,ある特定の血縁/居住集団の単位に擬せられるような性質のものではないこと,3)それらはむしろ,特定被葬者をどの場所に埋葬するべきか,すなわちこの場合,どの既存墓葬=特定祖霊の傍らに埋葬すべきかに関する決断の累積によるものであること,などが明らかにされるとともに,被葬者性別が男性に傾くこと,ただ1体の女性被葬者が14個のイモガイ横型貝輪を着装していたことから,栗山遺跡C群墓域に典型的に見るような集塊状墓群は必ずしも特定血縁/居住集団成員の墓域と単純に対応するようなものではなく,ある種の選択をへた諸個人の墓域であることが示された。
    さらに,社会的諸関係の再生産に関わる諸領野の一つとしての葬送行為の特質に関する社会学・社会人類学の研究成果を参照しつつ,上の3)が,特定祖霊の傍らに特定の死者を葬ることを通じて,それら両者間の社会的関係を表示確認し,ひいては,後者の埋葬行為の執行を司った人物(達)の社会的位置を,それら死者との関係において表示,確認したことによる,と解釈した。加えて,甕棺型式,残存人骨の年齢推定に基づく推定,すなわち,古い墓葬の被葬者の死亡時の,それに挿入される新しい墓葬の被葬者の年齢推定から,後者と前者の間に生前に直接的に取り結ばれた社会関係が存在しなかった可能性があること,また,後者の葬送の執行者が,古い墓葬の被葬者の生前の事跡を直接には知らなかった場合があろうことが推定され,そのことから,特定祖霊に関する『記憶』がある種の『資源』として,葬送行為において動員されたであろうという解釈が導かれた。そして,『資源』としての祖霊観念が,集団/共(協)同性の表象から,個人の役割,事跡に関する記憶などに表象される『個』的なものへと移り変わったことに,社会システムの変容と,その再生産のための戦略の変化を読み取った。
  • 東部の前期・中期古墳を例として
    重藤 輝行, 西 健一郎
    1995 年 2 巻 2 号 p. 95-117
    発行日: 1995/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    北部九州の古墳時代は埋葬施設の多様性と変化が顕著であり,それをもとにして北部九州の地域性に関する議論が進められている。ただ,これまで主として議論の材料となったのは玄界灘沿岸から有明海沿岸の北部九州西部の様相であり,首長墓級古墳の動向であった。さらに北部九州の地域性を追求するためには,北部九州東部と中小古墳の動向の解明を進める必要があると思われる。そこで,本稿では古墳時代前期・中期の北部九州東部の埋葬施設を中小古墳まで含めて検討してみた。各種埋葬施設の編年,階層的関係とその変化を検討してみたところ,古墳時代中期初頭には首長墓級古墳から新たな埋葬施設の採用が始まること,しかし,それは中小古墳に次第に取り入れられたことを明らかにすることができた。
    検討を行ったのは北部九州東部の事例であるが,このような現象は北部九州西部でも指摘できる。先学が埋葬施設の多様性と変化から導きだした北部九州西部の東部に対する政治的,文化的先進性は否定できないが,北部九州東部と西部に共通してみられる埋葬施設の変化の原則は北部九州の東西に及ぶ等質的な階層性を反映したものと思われる。畿内との比較から考えても,この階層性は北部九州に特殊な氏族的関係の存在を示唆するものであり,北部九州の地域性のひとつと捉えられる。
    また,検証は十分ではないものの古墳時代前期,中期の階層性から,北部九州における首長と中小古墳営造者層の問に取り結ばれる氏族的関係の内容について考えてみた。前期は首長墓級古墳と中小古墳で埋葬施設が共有されることから,首長層の突出が顕著でないと考えた。一方,中期になると首長層は新たな埋葬施設を取り入れ,中小古墳営造者層との格差を強調しようとするものの,中小古墳では首長墓級古墳に導入された新たな埋葬施設を順次,採用する。これを首長層が階層的な格差を強調する一方で,中小古墳営造者層が前期以来の関係を維持しようとつとめたためと推測した。
  • 白井 久美子
    1995 年 2 巻 2 号 p. 119-138
    発行日: 1995/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    古墳時代中期の最も特徴的な遺産は,大阪平野の南部に築かれた巨大な前方後円墳である。倭王権の象徴として確立した前方後円墳は,この時期に規模が頂点に達し,前方後円墳を中心とした政治秩序が列島各地で新たな展開を示している。ここでは,古墳時代を出現期・前期・中期・後期・終末期の5期に区分する立場から中期の諸要素に注目し,東国の地域首長墓に投影された中期倭王権の実像の一端を明らかにしたい。
    中期の諸要素は,韓半島を通じて受容した新しい技術によるところが多いが,それが定着し普及するには一定の時間を要している。また,すでに前期後葉から存在し中期に発達した要素もある。中期を大きく2段階に分けるならば,前期後葉から受け継いだものと進取の要素で構成される前半と,前期的な要素が払拭され,新たな技術革新が首長墓に集約される後半段階に分けることができる。
    ここで取り上げる木更津市高柳銚子塚古墳は,中期前半から後半へ移り変わる時期を代表する東国の前方後円墳のひとつである。古墳時代全般にわたって畿内とのつながりが濃厚な東京湾東岸地域に立地し,波及する倭王権の変化をかなり直接的に受容した地域の首長墓として注目される。現存する墳丘は後円部の一部を残して大きく削平されているが,盾形周溝をもつ140m級の前方後円墳に復原可能である。埋葬施設も破壊され石棺の底石が残るのみであるが,その形式から中期の王陵に用いられた長持ち形石棺の系統をたどることができる。また,墳丘に樹立されていた埴輪が採集されており,2次ヨコハケ調整と突出度の高いタガなどの中期円筒埴輪の特徴を備えている。
    一方,木更津「長州塚」出土品と伝えられてきた6点の石製模造品があり,直弧文の陰刻をもつ刀子をはじめ,精巧な造りの製品であることで知られる。これらがこの古墳にともなう可能性が高いことは既に先学によって指摘されているが,改めてその位置づけを検討し,墳形・石棺・埴輪の分析に加えたい。
    これらの限られた要素で中期前半の首長墓を検討するため,下総・常陸・毛野・下野・武蔵・遠江の類例を比較している。
  • 特に5世紀までの甲冑製作技術と設計思想を中心に
    高橋 工
    1995 年 2 巻 2 号 p. 139-160
    発行日: 1995/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    本稿では5世紀以前の東アジアで出土した甲冑を検討対象とする。その目的は大きく分けて2つある。第1は,当時の東アジアの各民族・国家がもっていた甲冑にどのような特性が認められるかを明らかにすることである。第2は,わが国の古墳時代前・中期の甲冑が,年代的に,技術的に,あるいは政治的に,東アジアの甲冑の体系の中でどのように位置づけられるかを明らかにすることである。
    検討の手法としては,東アジアで出土する多様な甲冑をその基本設計の違いから,小札綴・小札縅・地板綴の3つの系統に大別する。そして,小札綴系統が漢民族と,小札縅系統が北燕や高句麗等の騎馬民族と,地板綴系統が朝鮮半島南部・日本の民族と,それぞれ深い係わりを有していたことを述べる。その後,甲冑の基本設計を規定する製作技術の検討から,各種甲冑の変遷,各系統間相互の影響と伝播を考える。その結果,特に3~5世紀代の甲冑の伝播において,騎馬民族国家が果たした役割が大きいことを指摘する。また,地板綴系統として一括される朝鮮半島南部と日本で出土する甲冑が,技術的に別系統として分離可能であり,日本から半島南部へもたらされた可能性が強いことを指摘する。
    日本では独自の様式の甲冑が生産され続けたが,同時に,甲冑製作技術が海外からうけた影響も大きい。その影響は,4世紀代には中国から完成品が輸入され,5世紀代には朝鮮半島南部から甲冑工人が渡来するといったように,時期によって内容に違いが見られる。そして,このような状況は当時の東アジアの政治情勢と密接に関係していたと考えられるのである。
  • 図化資料から見た港市の防衛と機能
    坂井 隆
    1995 年 2 巻 2 号 p. 161-180
    発行日: 1995/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    現在の図化資料及び歴史的な絵画資料より,東南アジアと日本の中近世港市の特徴を,特に防衛施設の比較を通して検討した。
    ヨーロッパ人来航前の東南アジア港市では,中心的な宗教施設あるいは権力者居館は防衛されていない。近接して,貿易機能と政治機能が分かれている例が多い。ヨーロッパ人来航後は,バンテン・ラーマのような権力者居館・宗教施設,そして外国人が関与する市場全体をあまり堅固ではなく防衛する港市が生まれる。一方,ヨーロッパ人が権力を持ったバタヴィアやマラッカのような港市では,広大な外郭内に堅固な内郭要塞がある構造になる。
    東南アジアとインドの政治宗教都市は,方形規格を重視した例と楕円形の例,そして内郭が川に沿った多角形の例に分けられる。アヴァやデリーなどの多角形例は,王宮の防衛を除けば,市場を外郭に取り込み,港市と共通するものがある。ヨーロッパの伝統的港市ヴェネツィアは,全く防衛施設を持たず,東南アジアでの西欧要塞港市とは大きく異なっている。
    港市の防衛は,宗教権威によって保証された貿易市場の区画を示していると思われる。また,要塞化されない権力者居館は,港市社会内部に大きな階層差がないことを示している。
    日本周辺地域の港市は外郭を持つが,政治宗教都市とは異なって防衛機能の弱い内郭は,精神的な中心であると同時に,貿易取引に大きな影響力を持つ宗教施設の範囲を示している。また,政治機能領域と貿易機能領域に分化している例が多い。
    東南アジア港市ならびに日本地域の港市は,多くがその二領域の複合並立構成を示している。この二重機能とは同一の港市内部に存在する要素を意味し,両機能領域は対等に近い関係である。東南アジアでは,より普遍的な形でそのような二重機能領域分化が生じた。
    日本では,鎌倉段階ですでに生じていた港市機能の分化は,その後より深くアジア規模の貿易体制に組み込まれた中でさらに深化した。そして積極的にアジア貿易にかかわった港市では,東南アジア的な防衛構造を示すようになったと考えられる。
  • 中園聡氏の批判に応えて
    澤下 孝信
    1995 年 2 巻 2 号 p. 181-189
    発行日: 1995/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    土器を素材にして文化や社会の動態にアプローチする研究が,近年続々と発表されている。それも,外来系土器と在地系土器の関係というレベルの議論ではなく,土器製作に関する情報の伝達という視点から,土器がもつ属性によって伝播のあり方が一様でないことが指摘されている。これを行為者側からみると,土器製作者が属性もしくは要素に関わる情報を主体的に選択していることになる。このような取捨選択を,中園聡は,P.Bourdieuのハビトゥス(habitus)とモーターハビット(motor-habits)の概念を中心に説明しようとしている。
    モーターハビットについては1920年代にF.ボアズが文化的に形成された身体の動きを指す用語として使用しているが,近年では,無意識的で,学習されることも共有されることもなく,しかもほとんど変化しない習慣的な身体の動きとされ,文化的にパターン化された身体の動きには"モーターバビット・パターン"という術語が用いられている。したがって,モーターハビットは個人の行為に際しての癖と関連づけて理解し,個人を越えた集団の癖はモーターハビット・パターン(=ボアズ流のモーターハビット)として理解すべきであろう。
    また,ハビトゥスの原義では,無意識的行為はともかく,意識的・自覚的行為との関係が明確ではない。しかも,この概念は,結果的に行為者に現状維持を指向させるものであるから,社会や文化の動態の説明概念としては不十分である。
    この点において,行為者の実践的意識(=暗黙知)と言説的意識という意識の階層性を基礎としたA.ギデンズ(Giddens)の構造化理論の方が文化や社会の動態の概念化により有効であると考えられる。
  • 長野県エリ穴遺跡出土土版をめぐって
    竹原 学
    1995 年 2 巻 2 号 p. 191-200
    発行日: 1995/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    This paper describes a peculiar anthropomorphic clay tablet found in the Eriana site and examines its relation with other clay tablets and figurines from the eastern Japan.
    Eriana is a Late to Latest Jomon settlement site situated in Matsumoto city, Nagano prefecture, a mountainous region in central Japan. It is well know for the discovery of over 800 pieces of clay earrings.
    An anthropomorphic clay tablet was found during the 1995 excavation performed by Matsumoto City Archaeological Museum. It was intentionally broken into two pieces and arranged on a buried stone. The breaking was done by a strike on the reverse side and a scar from the blow is evident. This is rare example of the deliberate breaking of clay tablet, and an important specimen for comparison with the ritual impairment of the clay figurines. The piece is somewhat rectangular in shape, measuring 15.8cm in length, 8.6cm in width and 2cm in thickness, and is made of relatively refined clay. The decorative patterns on the reverse side are similar to those on the initial to early Latest Jomon pottery, and this firmly established the dating of this artifact. A human image is portrayed on the tablet as if it was a two-dimensional clay figurine. The image is constituted of a head, torso and legs, each being separated by incised lines which perhaps define a jaw line and a hemline of clothing. Arc-shaped eyebrows, nose, breasts, skirt-likeclothing and pubic region are depicted, with partial coloring in red.
    When compared with the clay figurines in eastern Japan, similarities are found with the later Late Jomon to early Latest Jomon figurines from the Tohoku and Kanto/Chubu regions such as the Yamagata and Mimizuku figurine types. These similarities are based on style, as well as the methods of depiction of eyebrows, nose, breasts and clothing. There are similarities with other anthropomorphic clay tablets from the northern Kanto region as well. Despite the fact that only faces are depicted on the other examples, patterns on the reverse side and expressions of the faces show the Eriana tablet is not an isolated example.
    Some scholars considered the anthropomorphic clay tablet as a variation of the clay figurine and its appearance was situated in the line of clay figurine development, while other scholars thought the two were different in terms of their function. The debate between the two groups of scholars has stagnated and the studies of the clay tablets have been pursued only in terms of representative types. Anthropomorphic clay tablets have been forgotten somewhat, partly because only a few specimens of them have been available for any detailed study. However, a few recent studies attempt to include all variations of clay tablets in a complete and detailed typology and chronology to understand their origins, developmentand decline. The discovery of the Eriana tablet should contribute to this trend, especially in terms of development and function of anthropomorphic clay tablet, and should help to end the old and forgotten debate on the tablet/figurine relationship.
  • 小野 昭
    1995 年 2 巻 2 号 p. 201-206
    発行日: 1995/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    The Willendorf site has long been famous for the Venus figurine found in culture layer 9, which belengs to the Late Palaeolithic Gravettian tradition of central Europe. However, a fully polished stone tool found in culture layer 8, just beneath culture layer 9, has been virtually ignored.
    A careful study on this tool was made, and it was re-evaluated as a tool which may have been used both as a polished ax and as a stone fabricator. The new radio-carbon dating on Willendorf layers is also descussed in relation to this tool.
    Just as done for the Willendorf site, more energy shuld be devoted to the re-examination of materials unearthed in past excavations for the purpose of studying polished stone tools and their manufacturing technologies as a means to understand the Late Palaeolithic period in Europe.
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