日本考古学
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3 巻, 3 号
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  • 福岡市老司古墳を主な事例として
    大西 智和
    1996 年 3 巻 3 号 p. 1-19
    発行日: 1996/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    本稿では当時の人々の「もの」の取り扱い方と,それが表す意味に注目した。素材として,福岡市老司古墳の埴輪を用いた。老司古墳からは壺形埴輪や円筒埴輪などが出土しており,壺形埴輪には,単口縁/二重口縁のものがあって,それぞれ,前方部/後円部で主体的に用いられていると報告されている。本稿では,まず,その確定を行うことにした。しかし,出土した壺形埴輪にはそのままでは単口縁/二重口縁の別が不明の破片資料も多いため,それらがいずれであるのかを判別する分析を行った。分析には角度や計測値などの計量的な属性と,形態などの非計量的な属性を用い,それらが単口縁/二重口縁のものとどのような相関関係を示すのかを検討して,判別の指標を導き出した。さらに,判別の有効性を確認するために,多変量解析(数量化分析2類・数量化分析3類)を用いた。
    判別した資料も加えて墳丘での出土状況を検討した結果,単口縁は前方部,二重口縁は後円部という使い分けを確定することができた。
    老司古墳の埴輪とその用いられ方(二重口縁/単口縁,円筒埴輪/壺形埴輪,埴輪の樹立間隔短い/長い)などについて,精巧さ,丁寧さ,手間暇のかかり具合,流行などの程度を考慮して,その度合いの高い/低いを想定した。また,墳丘各部(後円部/前方部,埋葬施設付近/埋葬施設以外,上部/下部)についても,重要度の高い/低いを想定し,両者の関係を検討したところ,それぞれ高いものどうし低いものどうしが相関することがわかった。次に,他の古墳での事例を検討した。使い分けには多くのバリエーションが認められたが,やはり同様の結果が得られた。これらのことから,墳丘各部に与えられた「価値」が広く認識されており,それが埴輪の使い分けによって表示されたものと考えた。
  • 増田 一裕
    1996 年 3 巻 3 号 p. 21-52
    発行日: 1996/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    半島から導入された横穴式石室は,およそ300年の長きにわたり,凡列島的な規模でわが国の古墳
    時代後期における葬制として採用され消長していく。1体埋葬にとどまらず,同一の内部構造に追
    葬が可能となった,この革新的な構造は,6世紀ころより倭王権の公葬制として採用され,次第に
    大型化・巨石積み化へと発展し,さらに切石造りの整美な石室に変化して,やがて,葬制の主体は
    横口式石槨に交替していく。
    畿内における大型横穴式石室の消長は,従来より一系列で把握されてきたが,玄室形態に共通型
    式を求めた時,実は複数の型式が互いに影響を及ぼしつつ多元的に展開していることが判明する。
    これらの中で,主系列が存在する。それは,大王家と最高執政官層の象徴的産物で,主系列の導入
    と技術的変化の背景には物部大連氏が大きく関与し,内在的に巨石積み,少段積み化をはたしてい
    く。しかし,7世紀代に入ると,物部連と姻戚関係を成立させた蘇我大臣がその主導権を掌握し,
    やがて最大の横穴式石室,見瀬丸山古墳と切石積みの岩屋山式石室を完成させる。このように,量
    的に限定された大型横穴式石室の消長をもとに,被葬者層の動向を追跡する。
  • 鉄地金銅装鞍を中心に
    宮代 栄一
    1996 年 3 巻 3 号 p. 53-82
    発行日: 1996/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    古墳時代の鞍金具の研究は,同時期の馬具の中でも最も分析が遅れている分野の一つである。この論文は,当該期の馬装を復元するための基礎作業として,古墳時代の鞍の分類・編年を確立することを目的とする。
    分析の手順としては,まず,鞍の一部に金属を用いる鞍(以下,金属装鞍と呼ぶ)を対象に選び,磯,海,山・覆輪,縁金具,〓という5つの分類基準を設定して,その項目ごとに細かな分類を行った。さらにその結果に基づき,古墳時代の金属装鞍に木装鞍,鉄地金銅装鞍,鉄装鞍,金銅装鞍という4つの大系列を設定し,各系列ごとの分岐の状況や系列間の関係を検討した。
    古墳時代の鞍の中では初めに鉄装鞍の系列が導入されるが,やがて舶載品と思われる金銅装鞍の影響を受けて,鉄地金銅装鞍や木装鞍の系列が成立する。このような古墳時代の鞍の発展段階は大きく6期に区分することができる。
  • 7世紀における瓦陶兼業窯の展開
    城ヶ谷 和広
    1996 年 3 巻 3 号 p. 83-100
    発行日: 1996/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    律令体制の形成という大きな政治的ながれは,当然,須恵器生産にも様々な影響を及ぼすこととなる。逆に言えば,須恵器生産の変化の中から,その政策の一端を復元することも可能となる。
    この時期の須恵器生産の変化の鍵を握るのが,瓦陶兼業窯であると考え,具体的には,尾張の瓦と須恵器生産を例にとって,律令体制の形成と地方における生産との関わりについて検討した。
    まず,7世紀前半代においては,推古朝の新しい産業政策の実施などにより,北陸地方などで一郡一窯体制といった新しい生産体制がとられるが,国造勢力の強かった尾張猿投窯では,ほとんど変化がみられず,新しい政策に対して,反応が比較的薄かった。
    ところが,7世紀後半になると,政治的な制度の整備に加えて,仏教政策,産業政策などが一体となって,中央の地方浸透政策はさらに強力なものとなる。
    中央権力は尾張国造勢力の支配に楔を打ち込むため,支配下に入った在地豪族へのテコ入れを行い,東畑廃寺を造営させる。そして,この寺院へ瓦を供給する窯として,篠岡2号窯が構築される。
    篠岡2号窯開窯にあたっては,おそらく工人を伴う形で奥山久米寺の瓦の笵型がもたらされるが,須恵器工人は国造勢力のおさえていた猿投窯から割きとる形で動員され,新たな丘陵を開発している。その後も,尾北窯では中央から瓦の技術が継続的に導入されるとともに,焼成された須恵器が,飛鳥石神遺跡など畿内中枢部へもたらされた。その意味では7世紀後半は仏教政策と産業政策を一体としてとらえることができ,その象徴が瓦陶兼業窯であった。
    このような7世紀後半の動きは富山県小杉丸山窯,福島県善光寺窯や滋賀県木瓜原遺跡など各地で見られるが,これらの窯の多くが,後に製鉄技術も扶植され,生産コンビナート的な生産地となっていく。大きくみれば,これらの生産地は同じ施策のもとに生み出されたもので,「新規開発型」
    (篠岡窯,木瓜原遺跡など)と「在地再編成型」(善光寺窯,小杉丸山窯など)に分けられる。
    しかし,8世紀半ばになると,これらの産地は衰退し,再編成の波が押し寄せる。尾張では尾北窯が衰退する一方,猿投窯が律令制下に組み込まれ,安定した生産を続けるようになる。
  • 宗臺 秀明
    1996 年 3 巻 3 号 p. 101-111
    発行日: 1996/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    This paper discusses the management and maintenance of an urban center in early medieval Japan (twelfth and thirteenth centuries), with particular reference to the drainage system in Kamakura, the political center of Japan between 1180 and 1333. As population of Kamakura grew in the thirteenth century, residents had to spread into alluvial lowland, which later became an important area for the shogunate. In the process, a well-planned drainage system was adopted, which is evident at numerous archaeological sites in present-day Kamakura City. Nonetheless, the Azumakagami, a chronicle of the Kamakura shogunate, records that many floods hit Kamakura. It has become apparent archaeologically that well-constructed drainage ditches filled up with garbage, pottery sherds, and animal bones. Historically, the Kamakura shogunate issued a decree in 1261 prohibiting the discarding of "sick people, orphans, dead bodies, as well as the carcasses of oxen, cows, and horses on and along the streets." All these indicate that the drainage system in Kamakura was not well maintained and managed by the shogunate, and it may be supposed that this poor maintenance contributed to the floods that destroyed houses and districts, as recorded in the Azumakagami. One reason why the government did not prevent people from discarding garbage in the drainage ditches may be the belief shared by the shogunate and residents of Kamakura in the power of water to wash away impurities.
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