日本考古学
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7 巻 , 9 号
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  • 田中 英司
    2000 年 7 巻 9 号 p. 1-19
    発行日: 2000/05/15
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    定角式磨製石斧はその美しく整った形状から,宝物的な品物とみなされることが多かった。この石器に対する感性的認識は,現在でも評価の底流に残っている。定角式磨製石斧は希に土器に入れられた状態で検出されることがある。こうした事例を集成し分析した結果,それが希少品を隠匿したデポ遺構であるという結論に至った(田中1995)。これらのデポ遺構は集落の内外に通常1箇所設けられて,少ないものでは3本,多いものでは10本の完成品が入れられている。他の遺構と比較すると,定角式磨製石斧が副葬される墓は一部の成人男子に限られる傾向が強く,磨製石斧を用いた実作業のリーダー格となる人物に関連が深いと考えられる。住居内に置かれる時も,副次的な位置ながら所定の場所を持っている。住居から搬出される際には空間的に独立する要素を本来持っていたことになる。
    定角式磨製石斧の製作は特定の石材のみに限られない。交易によって製品を手に入れることもあれば在地の石材を用いて自作することもあった。集落外のデポ遺構には隣接地に拠点的集落がある場合がある。定角式磨製石斧の所有者ともなるリーダーは数軒からなる世帯群を率いて,拠点的集落での活動を通じて物と情報に接する機会を得ることができたろう。所有した定角式磨製石斧を常時所持する必要がなく,帰属する空間が確定していてデポを設けた場所への回帰があらかじめ予想された場合には,集落から離れる際に,置き方に入念な工夫をした上で手元から離されたのだろう。集落外のデポ遺構が携帯土器を伴うことも,移動の途上で帰属する領域内にデポが設置されたことを示している。もどる場所が住居ならば,デポと同じ環境が特定の住居内に持ち込まれることもあった。逆に世帯を大規模に取り込んだ定住的な集落では,携帯土器に入れられることもなく隠匿性は弱い。その場合でもデポは単発的であり,組織的な行為だったとは考えにくい。デポを為したものは自立的,または自律的な個人レベルに近い小規模主体者である。この主体者が一種の公的な環境の中でどのように私的な権利を獲得するかという取り組みが,デポの痕跡となって残されている。
  • 駿河西部域における6世紀から7世紀の古墳出土須恵器を事例として
    後藤 建一
    2000 年 7 巻 9 号 p. 21-52
    発行日: 2000/05/15
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    本稿は,東海屈指の後期古墳である賤機山古墳出土須恵器を基軸に駿河西部域古墳出土須恵器の分析を通じて,須恵器流通の側面から古墳相互の連関構造を明らかとする。そして,当該地域からも多く出土している東海有数の湖西窯産須恵器が,7世紀から8世紀前半にかけて東日本太平洋沿岸諸国に広域流通する過程を6世紀代より追尾し,その担った役割の位置付けを行う。
    これまで駿河西部域の6世紀代窯跡は,天神山窯と秋葉山窯のみが確認されているにすぎなかったが,賤機山古墳出土の百点あまりの須恵器胎土を観察すると,既存の窯の他に複数の須恵器胎土が検出された。これらの須恵器胎土は駿河西部域の古墳からも数多く認められ,個々に特徴ある器種も抽出できることから,複数の地域窯の存在が確実視されたのである。これら諸窯は,湖西窯産須恵器との共伴より6世紀前半に開窯し,6世紀末から7世紀初頭にかけて廃絶することが判明した。開窯後の地域諸窯は,古墳の増加とともに流通圏も拡大し,6世紀後半には飛び石状の流通形態や複数産地から構成される重層的な古墳供献須恵器群,特産品による遠隔地流通など,古墳相互の関連が緊密に強まって地域流通は成熟期を迎えるのである。
    その一方で,緊迫した朝鮮半島情勢を背景に,出自の異なる首長を横断した地域の一元化掌握を目指す賤機山古墳被葬者が,6世紀中頃に倭政権(欽明朝)より派遣される。しかし,強固な古墳被葬者らの相関関係に阻まれるとともに,成熟した地域流通とはいえ脆弱な共同体を生産基盤とするため,手工業生産物の確保は著しく安定を欠いたものであった。このため賤機山古墳被葬者にみる6世紀代の地域一元化の政治手法は,ごく限られた領域で貫徹されるに過ぎず限界を露とするが,7世紀以降の湖西窯に見られる流通手法によって克服される。すなわち,6世紀末から7世紀初頭に駿河西部域諸窯が一斉に営窯を停止すると同時に,当地域を含めた東海東部域の古墳出土須恵器は,湖西窯産須恵器によって一元化されてしまう。このような広域にわたる一連の現象は,後の律令体制へ繋がる倭政権(推古朝)の新たな政治施策の結果と見做すことができるのである。
  • 高島 英之
    2000 年 7 巻 9 号 p. 53-70
    発行日: 2000/05/15
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    集落遺跡出土の墨書・刻書土器は,村落の内部における祭祀・儀礼等の行為に伴って使用されたものである。土器に墨書する行為は,日常什器とは異なるという非日常の標識を施すことであり,祭祀用に用いる土器を日常什器と区別し,疫神・祟り神・悪霊・鬼等を含んだ意味においての「神仏」に属する器であることを明記したものであると言える。
    墨書土器は,集落全体,もしくは集落内の1単位集団内,或いはより狭く単位集団内におけるところの1住居単位内といった非常に限定された空間・人的関係の中における祭祀や儀礼行為に伴って使用されたものであり,記された文字の有する意味は,おそらくそれぞれの限定された空間や集団内において共通する祭儀方式の中でのみ通用するものであり,個々が多様な時間的・空間的広がりの中で機能したと考えられる。
    文字を呪術的なものとして受容したところに,古代の在地社会の特質があるわけであり,祭具として東国を中心とする在地社会に浸透していったと見られるのである。
  • 北野 信彦
    2000 年 7 巻 9 号 p. 71-96
    発行日: 2000/05/15
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    本稿では近世初頭~江戸時代にかけての近世期(17世紀初頭~19世紀中期)の出土漆器資料を題材として取り上げる。近年,江戸遺跡をはじめとする近世消費地遺跡の発掘調査では,漆器資料が大量に一括で出土することがある。出土漆器は,木胎・下地・漆塗膜面という異なる素材からなる脆弱な複合遺物であるため,個々の残存状況は土中の埋没環境によって大きく異なり,発掘調査時の検出・実測図作成等の遺物観察・保管管理・保存処理等の取り扱いにも苦慮する場合が多い。加えて漆器は,陶磁器類の古窯跡に対応するような生産地遺跡もほとんど検出されない。そのため,当該分野ではこれまで代表的な一部の資料の表面記載にとどまる場合が多かった。
    本稿では,これら漆器資料を生産技術面(材質・技法)から調査することを目的として,全国135遺跡,総点数16,578点の近世出土漆器資料(一部箱書き等により年代観がある程度確定される伝世の民具資料も含む)を用いて,(1)樹種,(2)木取り方法,(3)漆塗り技法,(4)色漆の使用顔料や蒔絵材料,の項目に分けた機器分析調査を網羅的におこなった。
    また文献史料や口承資料を用いて江戸時代の漆器生産技術の復元調査を並行しておこない,機器分析による出土漆器資料の材質・製法の分析結果を正当に評価できるような基礎資料を作成した。
    その結果,生産技術面から近世出土漆器を調査することは,個々の資料の品質を正当に評価して,渾然とした一括資料を組成別にグルーピングする上で有効な方法であることがわかった。また,これらは(1)トチノキ材やブナ材を用い,(2)炭粉下地に1~2層の簡易な塗り構造を施し,(3)赤色系漆にはベンガラ,(4)蒔絵材料には金を用いず銀・錫・石黄などを使用する,等の日常生活に極めて密着した量産型漆器が大半であることも確認された。その生産技術は,少なくとも4つの画期があり,北海道・東北・日本海側・大平洋および瀬戸内側に大分類される地域的特徴が同時に存在することがわかった。
    本稿では,以上の分析調査の結果をふまえて,生産技術面からみた近世漆器の生産・流通・消費の諸問題についても概観し,今後当該分野研究の基礎資料となるよう努めた。
  • 筑前秋月城下の事例から
    時津 裕子
    2000 年 7 巻 9 号 p. 97-122
    発行日: 2000/05/15
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    本論の目的は近世の秋月城下における墓石の様相に示される階層性について明らかにし,それを通じて墳墓研究一般に寄与することである。徳川家や大名家墓所,民衆の共同墓地など数々の調査例から,近世墓は階層性を反映すると理解されている。しかし階層性の中にはこれまで着目されてきた社会制度上の上下関係のほかに財力,権威,社会的尊敬度など複数のベクトルが含まれている。その中で墳墓に反映されやすいベクトルや強調されるベクトルは一定しているのであろうか。それとも時代や建立者の立場,状況に応じて変化するのか。さらに階層性の各ベクトルと墳墓の諸属性との対応関係など,未解明な点は多い。加えてこれまで1つの藩のような階層化社会全体を対象に研究がなされたことはなかった。
    本論では秋月藩を事例として詳細な検討を行った。城下の寺院墓地に所在する墓石,近世の文献,城下の地図を用いた。はじめに形態やサイズ等に代表される墓石自体の属性に基づいて,家々の墓域を単位として被葬者の階層を考古学的に推定し,その後文献記録と照応することで考古学的推定の妥当性を検討すると共に総合的な考察を行った。
    墓石の様相には,秋月藩の定める格式や石高など社会システム上の序列が原則的に反映されていた。墳墓に表れた階層構造は秋月城下の空間構成など他の物質文化の様相と連動していることわかり,考古学的推定の妥当性が検証された。墓石1個体内の属性レベルでみれば,形態・サイズ以外の属性では制度上の序列のほかに,個人の社会的貢献度や尊敬度等が加味される可能性が示唆された。形態・サイズという階層差を反映しやすい属性についても,高いものと低いものが1つの墓石にミックスされ,上下関係がやや不明確になるケースが見受けられた。このように複数の属性を組み合わせた墳墓という物質文化の戦略的使用を通して,当時の人々が複雑な社会のあり方に対応していた可能性が指摘できる。
  • 原 俊一, 白木 英敏, 秋成 雅博
    2000 年 7 巻 9 号 p. 123-135
    発行日: 2000/05/15
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    北部九州の玄界灘東端部沿岸に位置する福岡県の宗像地域は,歴史的には沖ノ島祭祀遺跡に代表される。弥生時代は成人の甕棺墓がみられないことから福岡平野の奴国文化圏とは切り離され,響灘沿岸以東の影響が見られる地域として両地の中間地域に位置づけられている。
    東郷登リ立遺跡は,調査区内から中期土器が出土すること,前期環溝の外側に後期の溝が部分的に確認されたこと,さらに,集落の立地および規模から,宗像地域における弥生時代の中心拠点集落とすることができよう。
    宗像地域の環溝集落の変遷をたどると,今川遺跡の3号住居跡および包含層形成と並行する時期に東郷登リ立遺跡の拠点集落形成がはじまるものと推定できる。さらに,この拠点集落を軸にして今川遺跡および大井三倉遺跡の環溝集落が形成され,前期後半には環溝内に住居を持たず,袋状竪穴のみが集中して造営される遺跡が形成される。
    弥生時代前期墳墓のうち,田久松ヶ浦遺跡のSK206,218は,この時期の朝鮮半島南部に分布がある支石墓の内部主体や石槨墓に類似する構造とすることができ,各地の前期遺跡から検出されている「石棺墓」「配石墓」「石囲い墓」などと呼称され,上部構造が削平によって失われている遺構について,今後,再検討を加えてみる必要があろう。
    田久松ヶ浦遺跡の石槨墓は,朝鮮半島南部から直接海を越えてもたらされ,さらに響灘沿岸から東に伝わり,各地の前期墳墓に影響を与えた可能性がある。
    宗像地域の弥生時代前期にみられる様相は,朝鮮半島南部との交流によるところが大きく,沖ノ島が玄界灘東端ルート上の重要な位置を占めていたことが推定できよう。
    東郷登リ立遺跡のSD1出土土器に突帯を付さない直立口縁甕は特筆でき,今後の整理で,宗像地域の弥生時代早~前期における様相が明らかにできるものと思われる。
  • 下山 覚, 鎌田 洋昭, 中摩 浩太郎, 渡部 徹也
    2000 年 7 巻 9 号 p. 137-146
    発行日: 2000/05/15
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    鹿児島県指宿市西方水迫に所在する水迫遺跡は、標高126mの尾根状の末端に位置している。
    平成5年度のサン・オーシャンリゾート開発に伴う鹿児島県文化財課の分布調査によって,周知化された遺跡のひとつである。
    平成8年度に鹿児島県地事務所が事業主体となっている広域営農団地農道整備事業に伴って確認調査を実施し,縄文時代早期(岩本式土器段階)の遺物包含層を確認した。周辺の畑地では弥生時代中期の土器片などを採集することができていたが,路線予定地の調査地点では,周辺に比べて最大2mほど削平を受けており,弥生時代中期の包含層は確認することができなかった。
    平成11年度に水迫遺跡内における路線予定地内(約1,500m2)の発掘調査を指宿市教育委員会で実施した。約320m2の南側の調査地点において,縄文時代早期・縄文時代草創期・後期旧石器時代のナイフ形石器文化~細石刃文化・ナイフ形石器文化(AT上位)・ナイフ形石器文化(AT下位)の5時期の遺物包含層を確認することが出来た。
    特に,縄文時代草創期に該当する新型式土器として平成11年11月16日に発表した「水迫式土器」は,南部九州の縄文時代草創期後半の「隆帯文土器」と,南九州の縄文時代早期の貝殻文円筒形土器の最古段階として考えられている「岩本式土器」とを繋ぐ土器として注目される。水迫遺跡では,第5・6層から岩本式土器が,その下層の第7層から水迫式土器が層位学的に出土している。
    さらに,小形なナイフ形石器と細石刃・細石刃核が出土する第9層を埋土とした遺構を,基盤層である第14層上面で検出できた。遺構は,住居跡,ピット群,道跡で構成されている。
    また,住居跡の西側隣接地においては小形なナイフ形石器と細石刃・細石刃核がまとまって出土している。後期旧石器時代の遺跡の中で,このようにまとまって検出した事例は希少である。
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