日本考古学
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8 巻, 11 号
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  • 多摩ニュータウンNo.245遺跡とNo.248遺跡の関係
    及川 良彦, 山本 孝司
    2001 年 8 巻 11 号 p. 1-26
    発行日: 2001/05/18
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    縄文土器の製作についての研究は,考古学的手法,理化学的手法,民族学的手法,実験考古学的手法などの長い研究史がある。しかし,主に製作技法や器形,施文技法や胎土からのアプローチがはかられてきたが,土器の母材となる粘土の採掘場所や採掘方法,土器作りの場所やそのムラ,粘土採掘場とムラの関係についての研究は,民族調査の一部を除き,あまり進展されずに今日に至っている。
    多摩ニュータウンNo.248遺跡は,縄文時代中期から後期にかけて連綿と粘土採掘が行われ,推定面積で5,500m2に及ぶ全国最大規模の粘土採掘場であることが明らかとなった。隣接する同時期の集落であるNo.245遺跡では,粘土塊,焼成粘土塊,未焼成土器の出土から集落内で土器作りを行っていたことが明らかとなった。しかも,両遺跡間で浅鉢形土器と打製石斧という異なる素材の遺物がそれぞれ接合した。これは,土器作りのムラの人々が粘土採掘場を行き来していることを考古学的に証明したものである。
    土器作りの根拠となる遺構・遺物の提示と粘土採掘坑の認定方法の提示から,両遺跡は今後の土器作り研究の一つのモデルケースとなることを示した。さらに,粘土採掘坑から採掘された粘土の量を試算し,これを土器に換算し,住居軒数や採掘期間等様々なケースを想定した。その結果,No.248遺跡の粘土は最低でも,No.248遺跡を中心とした5~10km程の範囲における,中期から後期にかけての1,000年間に及ぶ境川上流域の集落の土器量を十分賄うものであり,最低限この範囲が粘土の消費範囲と考えた。さらにNo.245遺跡は土器作りのムラであるだけでなく,粘土採掘を管理したムラであることを予察し,今後の土器生産や消費モデルの復元へのステップとした。以上は多摩ニュータウン遺跡群研究の一つの成果である。
  • 山梨・新潟の試料を中心として
    外山 秀一, 中山 誠二
    2001 年 8 巻 11 号 p. 27-60
    発行日: 2001/05/18
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    山梨と新潟の11遺跡から出土した縄文時代晩期~弥生時代中期初頭の土器76点を整理して資料化し,このうちの55点を対象としてプラント・オパール分析を行った。土器胎土の定性分析と簡易定量分析の結果,8遺跡の14試料からイネの機動細胞プラント・オパールが検出された。このうちの4試料は弥生時代前期前葉に,5試料は前期中葉に並行する浮線文土器に比定される。
    また,山梨の宮ノ前遺跡では前期中~後葉の水田址が発掘されている。山梨と新潟では,かかる浮線文土器の段階にイネ資料が増加し水稲作が開始されている。中部日本の稲作の開始と波及を検討する上で,浮線文期は,稲情報の波及や水稲農耕技術の受容という生業の変換期となっており,その重要性が指摘される。当時は,地形や地層,標高などの地形環境に適応した多様な稲作形態であったとみられ,遺跡立地の多様化現象が認められる。
    さらに,地形分析に基づいて遺跡の時期的・地形的な動向を検討すると,両地域に遺跡立地の低地化傾向がみられ,弥生時代中期以降において水稲農耕の定着化が進む。
    また,山梨ではネザサ節型,新潟ではクマザサ属型のプラント・オパールが多数検出され,両地域間のササ類にみられる植生環境に違いがみられる。さらに,定性分析や簡易定量分析の結果は,胎土の供給源の違いとともに,土器製作時およびそれ以前の植生環境の違いや,植物質の混入または混和材の可能性を示唆している。
  • 土器編年から見た出雲の王墓の出現その他
    中村 五郎
    2001 年 8 巻 11 号 p. 61-88
    発行日: 2001/05/18
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    (1)列島と韓半島との交流には古くから搬入土器を重視した九州北部での研究がある。今回は土器の模倣に重点を置き,出雲から北海道の間の日本海沿岸の交流も含めて考えたが,とくに出雲と韓半島との交流が注目され,伽耶との土器の編年関係を第1表にまとめた。
    (1)その作業の中で塩町式土器のある器形に類似するものを嶺南北部で発見し,また,伽耶の低脚付き器種や円柱状脚部の高杯などが出雲を経由して列島に広がったと考えた。とくに庄内式の特色と見做された高杯は変容が著しいが後者が大和で展開したものであろう。
    (3)韓半島と列島との間の以上のような親密な交流は当然,鉄の流通に及んだはずである。
    (4)この前提で出雲からの考古情報を見直すと,同地域の二箇所の著名な青銅器埋納遺跡がこの鉄の流通に結びつくとの疑いを深めた。
    (5)以上の4項目に出雲市西谷3号墳丘墓での発見を加えて『魏志倭人伝』のヒミコが出雲から擁立されたとの結論に達した。
  • 北條 芳隆
    2001 年 8 巻 11 号 p. 89-106
    発行日: 2001/05/18
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    国立スコットランド博物館所蔵のマンローコレクション中にある環頭形石製品のうち1点は,材質や風化の状況,製作技法を検討した結果,真正品であることが確認された。その結果,日本国内に現存する破片資料の再点検が可能となり,これまで特殊な石釧とみなされてきた2例は,同じく環頭形石製品と考えるべきことも判明した。現状では本例を含めて3点の環頭形石製品が確認されることになる。いずれも古墳時代前期後半から末にかけての資料と認定されるのであるが,すべて緑色凝灰岩製であり,しかも武器の装飾品としての造形である。この事実は,古墳時代の石製品研究において重要な問題提起となり,従来の定説的見解には大幅な修正が必要であることを意味する。すなわち碧玉製や緑色凝灰岩製の石製品は実用性をもつ宝器とみなし,滑石製模造品は儀礼器具であるとして両者を截然と区別する根拠は,ほとんどなくなったとみるべきである。両者を統合的に把握しなおし,石製祭具として古墳時代祭祀の変遷過程のなかに位置づけるのが妥当である。
    ところで本資料は,20世紀の初頭においてマンロー自身が学界に公表したものであり,その著書『先史時代の日本』では,本例にかんする真贋問題の検討結果とともに丁寧に紹介されている。にもかかわらず,ごく最近までは石製品研究において本資料が省みられることはなかった。当時の日本側考古学者が,これを贋作とみなしたことが主因である。しかしいかなる背景のもとに,そのような処遇にたちいたり,以後研究対象から除外されるという情勢が生まれたのか。この問題を点検した結果,高橋健自と後藤守一の著作においてその概要をうかがうことができた。20世紀の前半段階において,碧玉や緑色凝灰岩製の石製品と滑石製模造品とを截然と区別し,それぞれが固有の器種構成を有するといった基本認識はすでに定立されており,本例はこの基本認識に抵触するがゆえに除外された可能性が高いのである。その後の研究動向もまた,これら古典的著作を踏襲する方向で進められてきた結果,本例が省みられる機会は遠のいたとみなければならない。その意味で今回の検討結果は,石製品研究におけるマンローの再評価として位置づけられる。
  • 荻野 繁春
    2001 年 8 巻 11 号 p. 107-122
    発行日: 2001/05/18
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    論文作成や調査資料の整理・処理に際し,多くのデータをいち早く簡単に処理して計算し,集計表やグラフができればと考えたりする。特に陶磁器を研究対象としている場合,大量のデータを扱う必要があり,旧来の研究方法論を踏襲するだけでは済まなくなってきている。そこで新しい研究方法として,コンピュータを使った情報処理によって迅速なデータ処理を考えてみることにした。
    荻野は中世陶磁器データベースを作成している(略杯MCD)。設定した54項目のうち17項目を中心に処理を実施する。重要なのが遺跡項目である。遺跡をどうとらえるかによって遺跡数に違いが出てくる。このデータベースでは「遺跡」「遺跡1」の2つの項目を設定している。
    中世陶磁器研究において,どのような処理結果が求められるであろうか。多くの場合,産地別ないしは器種別の出土数や遺跡数を求めることが多い。そこで70種類の出力結果を想定し,コンピュータでどうすればこうした結果が得られるかを考えた。
    マッキントッシュを中心に,ウインドウズでも利用できる方法として,アップルスクリプトとVBAによる処理の自動化を考えた。いくつかの方法を考えたが,アップルスクリプトとVBAの連携による処理方法を中心とした。つまり,アップルスクリプトプログラムによってデータベース・ファイルのデータをエクセルに変換した上で,VBVプログラムによってデータを処理し計算結果を出力する。
    アップルスクリプトやVBAでプログラムを書くと実行する命令を制御し高度な処理が実現できる上に他のアプリケーションを利用でき,ユーザー・インタフェースをも自作し利用できる。大事なのがGUIの設計である。ここでは2つのGUIを作っている。アップルスクリプトによるものと,VBAによるものである。この2つのユーザー・インタフェースを使い,利用者との対話形式でボタンなどをクリックするという簡単な方法で処理結果が出力されるようにした。
    このアプリケーションは誰にでも簡単に使えて考古学研究の時間のロスをなくし,大量の陶磁器データから思うような処理結果が極めて短時間で得られるようになった。
  • 長野県鷹山遺跡群
    安蒜 政雄, 島田 和高
    2001 年 8 巻 11 号 p. 123-132
    発行日: 2001/05/18
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    長野県中部高地に位置する星糞峠黒耀石原産地には,旧石器時代から縄文時代にかけて形成された鷹山遺跡群が立地している。1991年には,星糞峠縄文時代黒耀石採掘鉱山(採掘址群)の存在を確認した。そののち,1992から99年にかけ発掘調査と測量調査を継続して実施し,縄文時代草創期および後期の黒耀石原石採掘場,そして採掘原石の一次的な加工を行った草創期の石器製作址などを発掘した。鉱山は約45,000m2の面積に達し,地表面にはクレーター状の凹み地形195余基が,採掘活動の痕跡として現在においても累々と遺存している。
    これまでの発掘調査で,一つの採掘址の地下には,黒耀石鉱脈に達する複数の竪坑が切り合い関係をもって存在することが分かった。また,竪穴の段掘りによる竪坑の掘削方法が復原され,縄文時代の地下採掘に要した土木技術の一端を復原することもできた。地表面にみられる採掘址は,竪坑群掘削時の採掘排土が各竪坑に流入あるいは投棄されて堆積した結果であり,人為的に形成された地形である。採掘対象となった黒耀石鉱脈は地下の包含層としてあり,現在の地表面には露出していない。
    鉱山活動の規模を示す一例として,星糞峠鞍部で採掘排土の堆積状況を面的に追跡したところ,採掘作業により掘削された地山ロームの上に堆積する採掘排土が1~2mの層厚に達することを確認した。第39号採掘址や平面発掘された01号竪坑の最下底部も,黄褐色ローム層を掘り込み,現地表面から約2.5mに達している。
    星糞峠鞍部で発掘された石器製作址は,竪坑などの遺構が多数切り合うなかで,膨大な量に達する両極剥離痕をもつ石器,残核,原石,剥片,砕片そして石器加工具である多孔台石と敲石からなる石器群の出土で特徴づけられる。石器群と各遺構には,草創期後半に比定される刺突・押圧縄文土器群と回転縄文土器群が共伴している。ただし層位的には両土器群は一括出土している状況である。本論では,これまでに判明した鉱山活動の諸側面をまとめ,あわせて今後の課題を整理し,鉱山総合調査にむけての指針を得ることにする。
  • 戸田 哲也, 舘 弘子
    2001 年 8 巻 11 号 p. 133-144
    発行日: 2001/05/18
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    羽根尾貝塚と泥炭層遺跡は,神奈川県小田原市羽根尾において発見された縄文時代前期中葉の遺跡であり,1998年から1999年にかけて筆者等により発掘調査が行われた。
    遺跡はJR東海道線二宮駅西方約2.5kmに位置し,現相模湾より内陸に約1km入った地区にあたる。貝塚及び泥炭質包含層は地表下2~4mという深さに遺存しており,低位の幅狭い丘陵突端部の両側斜面と近接する同一地形の斜面計3カ所から発見されている。これらの斜面部には小規模な貝塚の形成のみならず,往時の汀線ラインに寄り着いたと考えられる多くの樹木類と木製櫂が点在している状況を加え,縄文前期海進により湾入した海水面汀線に沿った地点であったと考えられる。この汀線ラインには多くの人工遺物,自然遺物が廃棄されており,遺跡が埋没する中で低湿地化が進み,厚い堆積土の下に貝塚をも包み込むように泥炭層が形成されたのである。
    標高22~24mを測る斜面部には当初前期関山II式から黒浜式の古段階にかけて貝塚が形成された。この全く撹乱を受けていない貝層中には,土器・石器類そして多くの獣・魚骨と骨角器が良好な保存状態で遺存しており,当時の相模湾において船を用いたイルカ・カツオ・メカジキ・サメ・イシナギなどの外洋性漁労が活発に行われたことが知られる。さらに貝塚の端部には屈葬と考えられる埋葬人骨1体も遺されていた。
    貝層形成時及び直後の黒浜期に至ると貝塚こそ形成されなくなるが,貝層下端から斜面下方に残された泥炭質包含層中からは大量な廃棄された遺物類が出土した。
    多くの遺物が検出されたが,中でもシカ・イノシシの獣骨類とイルカ・カツオの魚骨類は足の踏み場もないほどのおびただしい量が出土しており,水辺の動物解体場を考えさせる状況であった。
    このように羽根尾貝塚と泥炭層遺跡からは縄文前期の相模湾岸で行われた陸上での動・植物採集活動と海浜での漁労という両面からの生活実態を知ることができる。また,その他の廃棄された漆器類,木製品類の豊かな木工技術を示す遺物を含めた文化遺物とともにまさに縄文前期のタイムカプセルといえる貴重な調査資料を得ることができた。
  • 縄文時代後期大形仮面土偶の検出
    守矢 昌文
    2001 年 8 巻 11 号 p. 145-152
    発行日: 2001/05/18
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    中ッ原遺跡は,八ヶ岳西南麓の北西側に位置する,長野県茅野市湖東山口地区に所在する縄文前期から後期にわたる代表的な集落遺跡である。数回の発掘調査によりほぼ集落形を把握することができた。それによると,集落は環状集落となり,東環状集落,西環状集落が鎖状に繋がる連環状を呈し,やや離れて台地先端環状集落が形成され,遺跡全体の占有面積は約23,000m2に及ぶ。
    2000年度発掘調査において,東環状集落中央部広場に展開する土坑群の中央部に占地する第70号土坑より,縄文時代後期前半の大形仮面土偶がほぼ完全な形で,埋置されたような状態で検出された。土偶を出土した土坑は鉢被葬のなされた墓壙に囲まれた墓域と思われる位置に構築されている。土坑の構築方法や平面形,覆土の状況等より第70号土坑も墓壙としての性格が考えられる。
    土坑内に埋置されていた土偶は,高34cmを量る大形土偶で,顔面に逆三角形の仮面を思わせる表現,体部・脚部が中空に作られ,腹部が大きく張り出すもので,中部地方の一部に分布する特徴的な土偶である。
    土偶は入為的に土坑に埋置されており,それが埋葬に伴い副葬品として埋置されたものか,土偶自体の埋置を目的としたものかは判然としてはいないが,土偶の埋置状況より土坑の性格と密接な関係を有していたものと考えることができる。右脚の破損状態が人為的な状況とも考えられる点などより,土坑の埋め戻しの中で,土偶の右脚部を外し,土偶体内に詰物をし再度現状に復し,側臥の状態で埋置したというような一連の行為を想定し得る貴重な例と言え,土偶の性格を考える上に興味深い所見であり,新たなる土偶祭式の在り方を提示するものである。
  • 景山 真二, 石原 聡
    2001 年 8 巻 11 号 p. 153-160
    発行日: 2001/05/18
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    島根県大社町出雲大社境内に所在する出雲大社境内遺跡で平成12年4月に巨大な柱根3本が束ねられた状態で出土した。それまで出雲大社境内は,防災工事等により縄文時代晩期から近世の遺物が出土しており,周知の遺跡であった。平成11年9月から出雲大社による地下祭礼準備室増設工事の事前調査として発掘調査が行われ,勾玉などの祭祀遺物の出土・大規模な礫集中遺構の検出などによって現状保存が決定した矢先,巨大柱が出土したのである。
    巨大柱3本の柱材を束ねて1本とする構造は,出雲国造千家家に伝わる『金輪御造営差図』に描かれた構造とほぼ一致しており,これまで文献史学・建築史学で高層建築であると言われてきた出雲大社本殿が考古学からアプローチできるようになった。
    柱周辺からは,本殿建設に使用したとみられる鉄製品が多量に出土している。柱の上面からは,釘・鎹・帯状鉄器など多種の鉄製品が出土しているが大型の鉄製品が多く,建設された建物が大規模であったことを物語っている。また宇豆柱の直下より鉄製の釿2点が出土している。遺存状況が非常に良好であり,古代末から中世初頭の工具の変遷を考える上で重要な遺物である。
    巨大柱遺構の年代は,遺構内出土土器から12世紀後半から13世紀代の年代が考えられ,また使用された木材は,炭素同位体比による年代測定の結果西暦1215~1240に伐採された木材であるという結果が得られており,文献史料との対応関係から宝治2(1248)年に造営された本殿跡である可能性が高い。
    当遺跡では他に古墳時代前期から近世に至る各時代の出雲大社の歴史を物語る遺構・遺物が確認されており,祭祀遺跡から考古学だけではなく,文献史学・建築史学・宗教史学など多方面に波紋を投げかける契機となった。
  • 近年の調査成果から
    川口 洋平
    2001 年 8 巻 11 号 p. 161-168
    発行日: 2001/05/18
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    長崎は,元亀元年(1570)に大村純忠によって開港され,南蛮船が入港するようになって,歴史の舞台に登場した。以後,幕府の貿易制限にも関わらず近世を通じて国際貿易港市として栄え,独自の地位を占めるに至った。本稿では,近年盛んになった近世長崎の発掘調査の成果を時期を追って概観し,問題点や今後の課題などを抽出したい。
    1980年代に始まった近世長崎の発掘調査は,1990年代に入って本格的になった。中国・東南アジア,ヨーロッパ産など,国際色豊かな遺物が出土することで注目を集めたが,狭い範囲の点的な調査例が増えてくると,遺構・生活面などの情報が錯そうし,遺跡全体の包括的な様相が理解しにくいという状況になっていた。これらの問題を解消し,研究の便宜を図ることを目的として,筆者は遺跡を長崎遺跡群として再定義し,表記法の整理を行った。また今回は,調査成果を順を追って概観するために,時期区分を設定した。考古学の視点からは,遺物・層位から,長崎I期から長崎VII期まで七区分を設定した。また,政治・経済状況の変化など歴史背景的な観点から,開港から大村領期,教会領期,豊臣公領期,徳川公領I期~IV期までの八区分を設定した。
    長崎I期は,開港から豊臣公領期にほぼ相当し,中世的な遺構や青花を主体とする遺物が出土している。また,この時期の資料としてヨーロッパ製のガラス杯などがあり,南蛮貿易との関連が考えられ注目される。長崎II期は,徳川公領I期前半に相当し,引き続き青花が多いが,I期に比べると器種構成に変化がみられる。また,東南アジアや国産の瀬戸・美濃製品などが豊富になってくる。東南アジア産の増加は,朱印船貿易との関連が推測される。長崎III期は,徳川公領I期の後半に相当し,初期伊万里を含む時代である。長崎IV・V期は,徳川公領II期に相当し,寛文大火による焼土層から輸出向けと考えられる肥前陶磁がまとまって出土している。長崎VI・VII期は,徳川公領III・IV期に相当し,輸出向けのVOC銘皿や清朝磁器などが出土し,幕末まで海外交渉が継続したことを裏付けている。
    今後の課題として,遺跡全体を包括する形での遺構面や生活面の検討が必要であると考えている。また,遺跡の構成や変遷を関連学問との連携を通して,幅広く研究を進めていくことも課題であると考える。
  • 2001 年 8 巻 11 号 p. 171
    発行日: 2001年
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
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