日本考古学
Online ISSN : 1883-7026
Print ISSN : 1340-8488
ISSN-L : 1340-8488
9 巻, 14 号
選択された号の論文の10件中1~10を表示しています
  • 土器・埴輪配置から把握される葬送祭祀の系譜整理
    古屋 紀之
    2002 年 9 巻 14 号 p. 1-20
    発行日: 2002/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    弥生時代~古墳時代の墳墓から出土する土器・埴輪類の出土状況をテーマとした研究は,幅広い時期・地域において行われている。しかし,墳墓研究における重要なテーマであるにもかかわらず,相互に連絡が無く,方法論においても未発達な部分を残している。
    本稿ではこの分野の総合的な研究の一環として,弥生時代後期~古墳時代前期の墳墓における土器・埴輪配置を,墓制の種類や土器・埴輪の区別を問わずに分析し,両時代間の社会変化の様子を葬送祭祀という側面から描き出そうとするものである。方法論の整備にも挑み,「配置位置」・「器種構成」・「使用土器系譜」・「出土時の状態」・「墓の階層性との関係」の五つの項目にわたって検討を加えた。そして,ある程度類例があり,志向性を読み取れるものについては「葬送祭祀」として認定する作業を行い,各祭祀の系譜関係を追及した。
    分析の結果,およそ次のような変遷をたどることができた。(1)弥生時代後期における地域性豊かな共同体的飲食儀礼の盛行。四国北東部地域・吉備地域・山陰地域・近畿北部地域で主体部上に土器配置を行う祭祀が共通して見られたが,土器配置と墓の階層との関係は地域によって様々であった。(2)祭祀の再編期。庄内式~布留式古段階併行期に各地で儀器の象徴化が進行し,地域限定型の囲繞配列が出現したが,これらの囲繞配列に使用された祭器は前代の在地の祭器の影響が濃く,地域色が濃厚である。(3)古墳における葬送祭祀の完成期。前期後半段階に円筒埴輪の普及に伴い囲繞配列を行う地域が増える。また,飲食儀礼が衰退し,供献儀礼へ移行していく。
    今回の分析の成果のうち重要なことは,弥生墓制における葬送祭祀と墓の階層性との関係が各地域で異なるということである。おそらく,各地域社会における葬送祭祀の社会的役割の違いがこの要因であり,このことが,次代の前方後円墳の葬送祭祀への影響の濃淡として表れると考えられる。
  • 九州における横穴式石室内棚状施設の成立と展開
    藏冨士 寛
    2002 年 9 巻 14 号 p. 21-36
    発行日: 2002/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    横穴式石室内に設けられた棚状施設である石棚は,環瀬戸内海を中心とする西日本に分布し,その分布には何らかのつながりが想定できる。本稿では,列島全体からみた石棚の持つ意義について考察を行なう前作業として,九州における石棚の系譜について整理を行い,併せて当地域における石棚の持つ特質について述べる。
    石棚と石室壁体,特に腰石との関係を分析すれば,九州の石棚は,1)石屋形からの系譜を持つもの 2)石屋形以外の系譜を持つもの,に二分できる。1)の石棚を持つ横穴式石室は,石材として凝灰岩など加工に適したものを用いており,石棚の架構には石工等の専門工人が関与した可能性がある。この両者の違いとは,築造に携わった工人の系譜の違いとも理解できよう。
    また九州の石棚には,1)主要な分布地の周辺には石屋形が存在すること 2)石棚の出現に対し,石屋形のそれは先行すること,といった現象が認められる。このことは,構造的な系譜がどうであれ,石棚の成立には,石屋形の存在が大きな影響を与えていることを示す。6世紀前葉,熊本県北部地域(菊池川流域)を起点として,1)石屋形 2)彩色壁画 3)複室構造,といった各要素が九州各地に拡散,定着するが,石棚の出現や展開もこの一連の現象の中に位置付けることが可能であり,その背景には,菊池川流域集団(火君?)の存在が想定できる。列島における石棚の分布とは,「火君」「紀氏」など,海上交通に長けた集団の交流による所産といえよう。
    このように,菊池川流域集団は考古学的な諸現象からみれば,大きな影響を九州各地に与えてはいるが,彼らの残した墳墓はさほど大きいものではない。彼らがこのような影響力を持ち得た要因は,陸路を通じた交流のあった八女地域集団の動向も含めて考察すべきであろう。
  • 賀来 孝代
    2002 年 9 巻 14 号 p. 37-52
    発行日: 2002/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    埴輪の鳥の種類には鶏・水鳥・鵜・鷹・鶴か鷺があり,それらを実際の鳥の姿や生態と照らして検討した。
    鳥の埴輪は,種類によって出現時期や配列場所が異なっていることから,すべての種類の鳥が同じ役目を担っていたのではなく,種類ごとに,それぞれ違う役割をもっていたに違いない。鳥の埴輪としてひとくくりにせず,別の種類の埴輪と考えるべきである。
    埴輪の鳥の種類を見分けるために,元となる鳥の特徴を,埴輪にどう表現したかを観察した。鳥類という共通性があるために,種類を越えた同じ表現もあるが,種類ごとに違う表現もあり,埴輪の鳥の種類を見分ける手がかりを得ることができた。
    体の各部分の表現を細かく見ていくと,初めはモデルとなる鳥を実際に見て作るが,早い段階で表現がきまってしまい,大多数が実際の鳥ではなく,鳥の埴輪を見て作っていることがわかる。鳥の種類も限られており,自由に鳥を埴輪に写したり,表現したりはできなかったことを示している。
    鳥の埴輪から鳥の埴輪をつくることによって起きる,表現の混在や簡略化の移り変わりを検討したが,そこには古墳時代の人々の観察眼と,観察の結果を埴輪に反映する独自性を読みとることができた。
  • 高野山奥之院経塚を起点として
    中村 五郎
    2002 年 9 巻 14 号 p. 53-70
    発行日: 2002/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    (1)法薬尼が高野山奥之院に造営した経塚(以下,高野山奥之院経塚という)の特色は,第一に女性が造営した経塚からきわめて高い水準の埋納品を発見し,第二に空海の加護で将来,弥勒菩薩の出現に会って仏の恩恵にあずかることへの強力な願望,第三に涅槃思想の存在である。筆者は法薬尼を堀河天皇の中宮篤子内親王と考え,造営の目的は天皇の追善で,中宮が崩御する直前に埋経した。
    まれに見る弥勒信仰の高揚は,天皇を追慕する人々が弥勒菩薩の出現の暁に天皇と再会したいという特異で熱烈な目的があったと推測する。中宮は熱心な仏教徒で民衆の仏教思想も受容していた。
    (2)経塚の造営者は通常その身元が判らないことが多く,また,造営者達の信仰が把握できない場合も少なくない。その一方で,経塚全体からみるとごく少数例だが藤原道長・同師通・白河院(上皇)のように膨大な情報量を持つ人物の経塚造営もある。高野山奥之院経塚の法薬尼を堀河中宮(以下,中宮という)としたことで一例追加された。経塚造営という習俗の始まりは道長の金峯山での埋経にあり,これら4人は当時の最上流の人々で,道長のみは数十年間遡るが,他の3人の間には近親関係がある。政治権力が集中した道長と白河院とに現世肯定的な思想があるが,とくに,中宮の場合には対照的に現世否定的な思想が明らかで民衆の間の信仰が最上流に波及したもので興味深い。
    (3)比叡山で活躍した最澄は人はすべて成仏できると主張し,道長の曾祖父・祖父は天皇家との婚姻関係を軸に政治権力を強化し,同時に比叡山を財政的に援助して聖職者への影響力を強めた。そして,彼ら摂関家の政治権力は道長の時期に絶頂に達し,道長は比叡山の信仰を基に経塚を造営した。摂関政治に反発した天皇家側は,後三条天皇の時期に権力を奪いかえし,次代の白河院は道長と同様に金峰山に埋経し,その後は熊野詣に熱心で,孫の鳥羽院も熊野詣で納経していた。
    (4)経塚造営を含めた浄土信仰や涅槃思想などは,主に聖が布教して成長する民衆の間に広まった。
    京都周辺の聖の行動範囲は洛北などの聖地を本拠に,叡山・南都などの本寺と京都の信者の間を往復した。広域的な聖の行動範囲では京都と荘園,あるい同一領主の荘園間の交流を利用した例もある。これらの思想・信仰は,社会階層でも地域的にも広まりを見せてやがて鎌倉仏教を成立させた。
  • 「かりそめ」の器としてのかわらけ
    鈴木 康之
    2002 年 9 巻 14 号 p. 71-87
    発行日: 2002/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    日本中世に使用された土師器系土器は,儀礼的な饗宴の器として特別な意味を与えられていたと考えられる一方で,食膳具を中心とする日常雑器として多様な用途があったとも想定されており,その本質には不明確な点を残している。本稿の目的は,土師器系土器に与えられた意味を検討するとともに,想定される多様な用途が,その意味とどのように結び付いているのかを明らかにすることにある。
    まず,土師器系土器が武家儀礼における酒杯として使われたことが文献資料から確認できるため,これを手がかりに,儀礼の果たす社会的な役割を人類学などの成果に学びながら整理した。その結果,儀礼とは社会集団の秩序や紐帯を再生産するため,社会的な統合を一時的に解体した非日常的世界であることが明らかになった。また,非日常的世界は日常的世界からフレームによって切り取られた象徴的コミュニケーションの場を形成していることを確認し,その象徴性を示すものとして「かりそめ」というキーワードを提示した。
    一方,土師器系土器の特質を磁器・漆器との対比によって分析し,そこにも質素で脆弱な材質に由来する「かりそめ」という意味が存在することが明らかになった。儀礼の時空では,そこが日常的世界とは隔絶していることをさまざまな手順や舞台装置によって表現する必要があり,土師器系土器は「かりそめ」を象徴することによって,儀礼の非日常性を示す役割を果たしていたと考えられる。
    また,土師器系土器には儀礼の酒杯以外にもさまざまな使用形態が想定でき,そこには多様で曖昧な意味が与えられているようにも感じられるが,「かりそめ」というキーワードを介して分析すると,それらは一貫した意味づけにもとついて使用されていたことが明らかになる。
    平安期には食器が材質による階層性にもとづいて使用されていたが,非日常的世界では階層性を解体するかたちで土師器系土器が採用され,中世にはそれが顕在化する。その背後には,「リミナリティ(境界性)」の原理が働いていたものと考えられる。
  • 西田 泰民
    2002 年 9 巻 14 号 p. 89-104
    発行日: 2002/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    考古学の初歩として,土器の用途は器形から説明されることが多く,また器形の分類方法についての基準案も提案されてきた。果たして,器の名称によってイメージされる形態にどの程度のバリエーションがあるのかを知るために,こころみに少しずつ器形を変化させたカードを作成し,かめ・つぼ・さら・わんを判別させるアソケートを行ってみた。その結果考古学を学んだ者とそうでない者,また性別や年代別で差が見られた。数は多くないが,民族誌調査による器形と用途についての考察を参照すると,器形と器形の名称およびその用途は一致しないことが少なくない。また土器をどのように認識・分類するかは,日頃どの程度土器に接するか,さらに社会的ステータスによっても異なることが知られる。器形のみからの用途の類推やその妥当性は分析者の文化的・社会的背景に多く依存することはいうまでもない。したがって,器形の分類はシステマティックであることは,考古学分析の上で要求されるが,あくまでそれは考古学的分類であって,使用者の分類とは異なる。それを根拠に用途論に展開させるのは適当でないということであり,方法上の限界を認識していなければならない。
  • 考古学者の専門的認知技能に関する実証的研究
    時津 裕子
    2002 年 9 巻 14 号 p. 105-124
    発行日: 2002/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    本研究の目的は,(1)われわれ考古学者に特有の認知のスタイルを,その技能的側面に着目しながら,実験的手法を用いた認知科学的アプローチで解明すること,および(2),(1)の実践が考古学界に果たす貢献について示すことである。
    (1)については,熟練した考古学者が遺物に対して発揮するすぐれた情報処理(分類・同定,記憶等)能力を"鑑識眼"と呼び,3つの実験を通してその特性を明らかにした。実験1では描画法を用いて考古学的知識構造の性質を分析し,低視覚的属性・非言語的属性がとくに重要な要素であることを解明した。実験2では,被験者が遺物を観察する際の眼球運動をアイカメラを用いて測定し,熟練した考古学者に特有の注視パターンを抽出した。また観察後に行わせた描画再生法による記憶テストの結果と比較することで,観察法と考古学的記憶の内容・精度に密接な関係があることを示した。実験3では実験室を離れ,実験1・2で行った実験をより日常的文脈で確認する目的で,発掘現場で調査活動中の考古学者の認知を対象とした。土層断面を観察し遺構検出を行おうとする被験者の観察行動および注視パターンを,アイカメラによって測定した。また観察後に行わせた描画から,それぞれの被験者の遺構認識の内容を調査し,観察行動と認識内容に相関があることを確かめた。
    (1)の実証的研究を通して,経験を積むことで体得された固有の認知のスタイルが,考古学的判断(情報処理)の質にどう影響するかが示された。このように研究主体の認知特性について正しい認識ををもつことで,より洗練された方法論の開発や効果的教育法を生む可能性が高まる。その一方でさらに重要な意義として,われわれの意識改革を促進する効果があることを指摘し,それが旧石器捏造事件以降混迷を深める状況の中で,考古学全体の発展にとっていかに有益であるかに言及した。
  • 秋山 浩三
    2002 年 9 巻 14 号 p. 127-136
    発行日: 2002/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    西日本でも近年,縄文時代の代表的な石製呪術具である石棒類(石棒・石刀・石剣)の研究が盛んになってきた。とくに小林青樹や中村豊らを中心とする研究者によって西日本各地の関連資料の集成作業がなされ,重要な成果が公表された。そのなかで,『河内平野遺跡群の動態』(大阪府・近畿自動車道関連報告書)に収載されていた石棒の一部に関しては,掲載方法の不備(図面・記載の欠如)もあって,上記集成書からは遺漏してしまっている。
    それらの報告補遺を端緒とし,(旧)河内湖南岸域の諸遺跡から出土している石棒類を再検討する。その結果,この地域の石棒類には,弥生時代に属する遺構からの出土例が比較的多くみられ,"弥生時代の石棒"の存在を確実視できる。さらに,同様の観点で近畿地方各地の関連データを検索するならば,近畿一円に類似した現象を追認でき,それらの多くは縄文晩期末(突帯文)・弥生前期(遠賀川系)土器共存期の弥生開始期~弥生中期初頭(第II様式)という,一定の継続した時間幅のなかに位置付けられることが明らかになった。この現象は,ことに大阪湾沿岸域で比較的顕著で,なかでも近畿最古期の環濠集落を成立させた地域周辺で際立っている。
    従来の研究において,弥生時代の石棒に関しては,縄文時代の石棒類とは異なる原理で生まれたと評価されることが主流で,縄文時代から継承するあり方で遺存する諸例に対し積極的に言及されることがなかった。しかし,このような石棒類を分析するならば,弥生開始期における縄文・弥生系両集団の接触・「共生」(共存状態)・融合という過渡的様相のなか,両系集団の間にはおおむね当初段階からかなり密接な関係が,使用していた土器の種類や経済的基盤の違いをこえて達成されていたと想定できる。これは,縄文・弥生系集団による隣接地内における共生の前提であり背景であった。さらに,祭祀行為自体の特性から推測すると,このような弥生開始期やそれ以降の普遍的な弥生文化の定着後においても,石棒類が直ちには消滅せずに根強く存続した要因として,弥生文化の担い手の主体的な部分が在来の縄文系集団に依拠・由来していたことによる,という見通しを得ることができる。
  • 川崎 志乃, Hiroyuki Hondo
    2002 年 9 巻 14 号 p. 137-144
    発行日: 2002/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    筋違遺跡は,三重県一志郡嬉野町の雲出川下流域平野に位置する。2001年度の国道23号バイパス中勢道路建設に伴う発掘調査では,弥生時代前期の畠跡と水田跡が検出された。
    弥生時代前期の遺構面は2面確認される。下層遺構面はいわゆる黒ボク層の二次堆積層を基層とし,幹線水路を境に微高地では畠,微凹地では水田が検出され,微地形に対応した土地利用形態となっている。畠は畝立て状を呈し,畝間の長さは極めて狭い。合わせて円形土坑も確認された。畠の一部には,幹線水路からさらに枝水路がのびている。この下層遺構面は幹線水路を充填した洪水層により埋没する。他方,上層遺構面は下層遺構面を覆う洪水砂層を基層とし,幹線水路の両側において水田が営まれていた。
    これまで伊勢湾の西岸地域では,上箕田遺跡や納所遺跡において水稲農耕の開始の可能性が指摘されてきたが,筋違遺跡では水田とともに水利施設が確認されたことから管理型の潅漑水稲システムが確立されていたと考えられる。
    さらに,日本列島において弥生時代前期の畠の調査例は少なく,潅漑水稲システムと合わせて畠を確認できた点で筋違遺跡の成果は注目される。本調査では栽培植物の検出や土地条件の変化などを目的とした分析も合わせて実施しており,今後の多角的な視点からの検討が期待される。
  • 萩原 博文, 加藤 有重
    2002 年 9 巻 14 号 p. 145-156
    発行日: 2002/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    平戸オランダ商館は,東イソド会社の東洋における最前線基地として1609年設置された。本商館は1641年長崎出島に移転するまで,日蘭交流の拠点として重要な役割を果たしており,大正11年に国史跡に指定された。
    従来,本商館諸施設の実態は明らかでなかったが,最近オランダ国立中央文書館所蔵史料の分析や発掘調査の進展によって,その内容が明らかにされつつある。
    商館時代の遺構は,発掘成果と文献史料を考慮して3期に区分され,海岸埋め立てに伴う商館所有地の拡大と良く一致している。第1期は既存の施設を使用した時期,第2期は商館による諸施設建設工事の開始される1612年より1636年までの時期である。第3期は洋風石造倉庫の建設が開始される1637年より1641年までの短期間であるが,洋風や和風の建物が増改築され,史料も豊富で,その実態が最も明らかにされている。
    平戸市教育委員会は,商館跡の復元整備を目的に1639年に建造された石造倉庫の発掘調査を進めていたが,2002年の調査でその全容が明らかとなっている。
    本倉庫は1610年代築造の2棟の倉庫を壊し,1638年末より1639年にかけて建築された洋風の石造倉庫であるが,1640年江戸幕府によって最初に破壊命令を受けた建物である。
    史料(会計帳簿等)に,内壁の長さ148フート,幅41フート,石壁の厚さ2フートの長方形の建物と記されている。発掘調査で検出されたのは壁基礎部の地業であり,石壁の位置を特定できないが,幅41尺,長さ148尺と日本の尺度とすれば比較的良く整合している。
    石壁の基礎地業は,上面幅100~160cm,下面幅60~100cm,深さ30cmの溝の最下面に10cmの砂層が存在し,その上位に各種石材を積み重ね,そのすき間に漆喰を塗り固めてあった。
    本建物遺構の南側中央に,上面幅210cm,下面幅170cm,深さ50cm,長さ10m強の同様の構造を呈する,外付石造階段の地業と思われる遺構が検出された。
    礎石の地業は上面の直径2m強,深さ40cmの掘り込みで,下部に板状玄武岩が3段ほど敷かれ,最上部に漆喰が認められた。
    1639年築造倉庫の基礎遺構は,日本に例のない工法が使用され,オランダ商館長日記や会計帳簿などの史料と発掘成果は良く整合していることが,本調査によって明らかとなった。
feedback
Top