大阪歴史博物館研究紀要
Online ISSN : 2435-8622
Print ISSN : 1347-8443
13 巻
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  • 大澤 研一
    2015 年 13 巻 p. 0001-0018
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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    豊臣期大坂城には豊臣秀吉に従う大名をはじめとする武家の屋敷とそれらが集まった武家地があった。しかし、どのような武家の屋敷がいつ頃より大坂に存在したのか、またその具体的な所在地はどこであったのかという点については、必ずしもよくわかっていなかった。そこで本稿では、特に慶長三年(一五九八)までの豊臣前期を対象に、大坂における武家屋敷と武家地の動向の大きな流れを示すとともに、妻子をともなって大坂に居住した武家が少なからずいたことや、町人地に散在して住んだ武家がいたことなどを示した。
  • 栄原 永遠男
    2015 年 13 巻 p. 1-9
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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    聖武天皇は、神亀₃年に難波宮に行幸し、藤原宇合を知造難波宮事に任命し、難波宮の造営に乗りだした。しかし、聖武天皇は、この行幸の前に、播磨国の印南野に行幸し、そののち難波宮にまわっている。この連続する二つの行幸には関連があるとみるべきである。聖武天皇の即位初期の行幸は、いずれも自らの皇位の正当性を明示する場所を目的地としているので、印南野行幸も同様に考えることができる。印南野にはかつて中大兄皇子が行き、祥瑞である豊旗雲を見ている。瑞雲の著名な例として、壬申の乱のさなか名張で大海人皇子が見たものがある。聖武天皇は、この両方を知っていたはずであるが、そのうち印南野に行幸したのは、その地が、節日や鎮魂祭・大嘗祭などに供される柏の採取地であったからである。印南野の柏がこれらの王権にかかわる祭祀に使用されるのは、かつてこの地の豪族と天皇家との間に婚姻関係があり、贄が貢納されていた伝統による。聖武天皇は、祥瑞を見るために天皇家とゆかりの深い印南野に行幸し、天智・天武天皇の後継者たることを自他ともに示した上で難波宮に行幸し、その皇位の正当性を象徴する宮として難波宮の造営を命じたのである。
  • 村元 健一
    2015 年 13 巻 p. 11-24
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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    孝徳朝難波長柄豊碕宮と考えられる前期難波宮は、調査の進展により、宮内の状況はほぼ明らかとなった。一方、起伏に富んだ上町台地上に築かれたこともあり、周辺域の様子はあまり明らかでない。課題として、京の存在、朱雀大路の有無ということが挙げられるが、いずれの問題も宮城の南方域の実態解明という点に集約される。本稿では7世紀の倭、中国の都城のあり方を検討し、この問題を考察する。結論として、7世紀半ばの段階で難波に長大な朱雀大路をつくる必然性はなく、京域については自然地形による制約から宮城の西南方、上町台地脊梁部に開発が集中し、東南方はあまり開発が進まず、宮城南方は中軸線を挟んで東西不均衡な景観であったことを指摘した。ただし、台地上の区画は自然地形を無視して正方位を意識しており、新たな王都の誕生を予感させるものであった。
  • 木土 博成
    2015 年 13 巻 p. 0019-0048
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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    一七世紀、西国有力大名は参勤・帰国に当たり船で大坂に出入りする際、船手(船奉行)に民間船を除けてもらう特別待遇を受けていた。これを「船除(ふなあらけ)」という。一八世紀初頭には天候不順・大坂での海上混雑などを背景に、多くの西国大名が室津(播磨)~大坂間を海上通航から陸上通行に切り替え、船手の八木勘十郎の代に「船除」はほぼ廃止された。しかし島津氏はそれに危機感を抱き、徳川家康・秀忠との参勤由緒を根拠に、正徳元(一七一一)年に船手に対して再開を願い出た。結果として大坂城代の判断により、船手ではなく大坂町奉行の管轄のもと、島津氏への「船除」は新たに認められる。とはいえ、正徳元年以降も島津氏は主に室津~大坂間を陸上通行したため、このような新たな「船除」は定着しなかった。「船除」再開を願い出た島津氏の力点は実際の通航の利便性というより、既得権益の確認にあったのである。
  • 渡来文化受容の一事例
    寺井 誠
    2015 年 13 巻 p. 25-34
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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    5 世紀前半頃の日本列島は、朝鮮半島からさまざまな新文化を受け入れ、自らの文化を変えていく時代である。甑もそのひとつで、朝鮮半島の技法・器形を忠実に真似ることによって導入するのであるが、ごく一部に、煮炊きに使われていた在来の土師器甕の底部に蒸気孔を穿ち、甑に加工した事例がある。このような甑は大阪府茨木市の安威遺跡、奈良県御所市の南郷千部遺跡、岡山市の高塚遺跡で出土している。3 遺跡では朝鮮半島的な文化要素は多分に見られるものの、甑については器形・技法が忠実に採用されたものが少ないという共通点があり、何らかの理由で甑が必要になった際の臨時的措置と考える。これは新文化の導入を我流で試みたものの、普及しなかった一例でもあり、渡来文化の受け入れに際しての試行錯誤の過程を示している。
  • 松尾 信裕
    2015 年 13 巻 p. 35-45
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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    秀吉という同一人物によって建設された伏見と大坂の城下町は近世城下町の発達過程において重要な位置を占める。この二つの城下町は、都市の平面構造にも違いが出ている。先に建設された大坂は竪町プランの城下町で、その後もその形態を保持して拡大し続けた。伏見はその出現時には小規模な竪町であったようだが、城下町化を図った文禄段階に横町プランの城下町へと変容した。 大坂は織田信長の後継者となって、自らの本拠地として建設した城下町である。秀吉亡き後も秀吉の本拠地として繁栄し続け、大坂の陣まで多くの町人が居住する城下町となっていった。さらに徳川幕府によって西日本の中心となる商業都市へと再生させられた。 一方、伏見城下町は関白の座を甥の秀次に譲った後、秀吉の隠居所として建設されたが、嫡子秀頼の出生によって政権を秀頼に移譲させようとする秀吉の欲望によって都市の性格が大きく変化した。さらに、秀次事件ののち、京都に代わる豊臣政権の公儀の城下町となっていったが、秀吉の死亡により、豊臣家と徳川家の確執の場となり、都市として繁栄していくことはなかった。
  • 飯田 直樹
    2015 年 13 巻 p. 47-60
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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    この論文の課題は、明治前期大阪における町共同体による土地家屋売買に対する規制の実態について明らかにすることである。 大阪の三つの地域における土地家屋売買の実態を検討した結果、町による規制について以下のことが明らかになった。 明治前期大阪における町による規制の具体的内容は、以下の三つの側面にまとめられる。 ( 1 )売買が町内へ周知されること。 ( 2 )売買が成立するためには、町内の家持の同意が必要であること。 ( 3 ) 町内で物件が競売されることによって、その町内住民が物件を優先的に取得できること。 また、この論文は、戸長役場文書が町による規制を検討する際、有効であることを示した。
  • 伊藤 廣之
    2015 年 13 巻 p. 0049-0060
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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    本稿では、一九九○年代以降に生まれた、自然や環境を対象とする民俗学の研究として、野本寛一の生態民俗学、篠原徹の民俗自然誌、鳥越皓之の環境民俗学、菅豊の人と環境の民俗学を取り上げ、彼らがどのように自然や環境を捉えようとしていたのか、その論点の検討をおこなった。そのうえで、菅がコモンズ論を展開するうえで用いた視点をヒントにしながら、鳥越が提示した環境民俗学の三つの視点を整理・統合し、「自然と人の関係性」と、環境を媒介とした「人と人の関係性」という二つの視点を提示した。そのうえで、漁撈研究のための分析枠組みとして「漁撈をめぐる三つの関係性」を設定し、今後の河川漁撈研究について研究課題と研究方法を提示した。
  • 豆谷 浩之
    2015 年 13 巻 p. 0061-0071
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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    近世大坂には諸藩の蔵屋敷が置かれていた。それらは江戸の大名屋敷とは異なって、各藩の必要性に応じて設置されるものであり、個別の事情に応じて、設置・廃止、あるいは移転するものであったことが特長である。幕府領である大坂に諸藩が土地を所有することはできなかった。そのため蔵屋敷、名代という町人名義の屋敷を借りるという形式をとったが、実質は藩が所有しており、売買や質入れなどで所有者が表面化する時には名代を介するという場合があった。また、名目だけではなく、実質の部分でも蔵屋敷を「借りる」という場合もあった。そのような選択肢があることで、蔵屋敷の設置や移動が容易になった側面があり、そのことが幕藩制下における商業・流通都市としての大坂の活性化に大きな意味を持っていたと考えられる。
  • 有栖川宮に仕えた刀工・桜井正次と関西
    内藤 直子
    2015 年 13 巻 p. 0073-0084
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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    明治二十一年(一八八八)から大正六年(一九一七)の間、神戸市西部の景勝地・舞子の地に有栖川宮熾仁親王・威仁親王の別邸があった。しかし、威仁親王が同地で刀工を抱え、別邸敷地内に鍛錬場を設けていたことは殆ど知られていない。本稿では、有栖川宮威仁親王に抱えられた刀工・桜井正次が関西を拠点としていた約十年間の動向に着目し、同地に建てられた鍛錬場「如神庵」での事蹟と、その後同庵が移転した京都・八幡市の圓福寺での事蹟について紹介する。また、正次の子・正幸が京都・立命館大学の日本刀鍛錬所に奉職していたことも踏まえ、明治から昭和戦前期における刀剣製作者の置かれた状況を展望する。
  • 船越 幹央
    2015 年 13 巻 p. 87-93
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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  • ラジオ番組「大阪アラベスク」のSP音源をめぐって
    澤井 浩一
    2015 年 13 巻 p. 0095-0104
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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  • 鴻池家における名物裂の蒐集と利用
    中野 朋子
    2015 年 13 巻 p. 0105-0124
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
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