大阪歴史博物館研究紀要
Online ISSN : 2435-8622
Print ISSN : 1347-8443
14 巻
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  • 栄原 永遠男
    2016 年 14 巻 p. 1-14
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
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    前期・後期難波宮の造営には膨大な資材が使われたはずであるが、その実態はほとんどわかっていない。材木についても、どの地域のものが使用されたのかという点については、先行研究がない。本稿では、難波宮造営に特徴的に使用されたコウヤマキに注目することにより、播磨国や西摂地域の材木が使用された可能性があることを示した。この地域の大河川を筏で運ばれた材木は、海洋筏によって難波まで運漕され、難波宮の造営その他に使われるとともに、淀川をさかのぼらせて、平城京や平安京およびその周辺で使用された。播磨国や西摂地域からの材木の流通を新たに考慮することにより、それが集散する難波地域の経済的位置・都市的機能を再検討する必要が生じる。
  • 伊藤 廣之
    2016 年 14 巻 p. 0021-0032
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
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    淀川を漁場とする二人の川漁師からの調査にもとづき、漁場である河川や漁獲対象である魚に対する川漁師の自然観を追求した。河川に対する自然観としては、魚のよくとれる漁場を「米櫃」と捉える自然観が存在し、しかもその自然観が淀川だけではなく、荒川のほか、海の漁撈においても認められることを指摘した。また漁場の占有と秘匿の慣行をめぐって漁場を媒介とする「人と人の関係性」にオモテとウラの二面的なあり方があることを指摘した。さらに魚に対する自然観としては、淀川の川漁師の「魚のことは魚に聞け」ということばを手がかりにして、自然と人を対立的にとらえるのではなく、並立的に捉えようとする自然観が淀川の川漁師のあいだに存在し、それが利根川・長良川・木曽川など広い範囲の川漁師にも共通して認められることを明らかにした。
  • 高津屋史料の紹介をかねて
    大澤 研一
    2016 年 14 巻 p. 0033-0042
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
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    慶長二十年(一六一五)の大坂夏の陣は、近世大坂の町の成立を考えるうえで一つの大きな画期となった。しかし、その後の復興の過程については関連史料が少なく、詳しい状況はわかっていなかった。最近確認した高津屋の記録は天明六年(一七八六)のものであるが、高津屋が元和六年(一六二○)にかけて上町の町割りをおこなったこと、大坂城外曲輪の堀を埋めた後の土地を開発したという復興の具体にかかわる記述があるほか、復興後、町家としての利用のなかった土地を支配し続け、そのなかから大坂城定番や大坂役人衆の屋敷として収公されていく土地のあったことをその場所を書きあげて記している。こうした特定の町人が大坂の町の復興にかかわった事例はこれまで知られておらず、また復興した土地がその後利用されていく様子を伝えたこの史料はたいへん貴重なものと評価できる。本稿ではこの史料を全文翻刻し、今後の活用に供するほか、本史料のもつ歴史的意義を明らかにしようとしたものである。
  • 寺井 誠
    2016 年 14 巻 p. 37-46
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
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    須恵器の甑は、須恵器生産開始当初から陶邑や大庭寺などの生産地で作られる。しかし、一般的な集落では酸化焔焼成の甑が多用され、須恵器の甑が出土することはあまりない。この点を端緒にして、須恵器の甑と酸化焔焼成、つまり土師器として展開していく甑について、朝鮮半島的要素の有無で比較してみた。すると、須恵器生産地の甑においても故地が若干異なり、その後の展開でも、把手上面に切込を入れたり、把手の位置に沈線を施したりなど、朝鮮半島的な特徴が6世紀になっても残り、かつ、蒸気孔を対比すると、同時期の百済と共通するものが存在することがわかった。須恵器の生産地という、ある意味閉鎖的な環境で土器づくりが行われるため、土師器生産との技術交流がなく、独自に展開していったことが、土師器との差異が大きくなった要因である。また、九州など他地域でも同様の須恵器甑が6世紀代にみられることから、生産地どうしのネットワークの存在を反映しているものと考える。
  • 伊藤 純
    2016 年 14 巻 p. 0043-0052
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/10/30
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    戦国時代以降、河内・大坂地域で信濃善光寺が信仰を拡大していった過程を明らかにする。永禄元年(一五五八)以降、善光寺では本尊が不在となり、荒廃する。慶長三年に本尊が戻り、翌年から修復工事が始まる。工事の財源を確保するために慶長二年(一五九七)に三十三度詣を達成した小山善光寺の宗珍に「善光寺参詣曼荼羅」を与え、河内での布教の拠点とする。小山善光寺では曼荼羅を活用し善光寺への財源を確保しながら、自らの財も貯え、慶長一二年(一六〇七)に再興を果たす。一七世紀中頃に難波の堀江=阿弥陀池が大坂の地に見い出される。元禄七年(一六九四)には大坂で善光寺如来の出開帳が行われ、その後善光寺講ができる。元禄一一年(一六九八)、堀江川が開削され、堀江地域開発の要となる和光寺が創建されるのである。江戸後期になると融通念仏宗の強力なネットワークにのる形で、垣内善光寺が新たな布教拠点となる。このように善光寺は河内・大坂地域においてそれぞれの土地の事情を踏まえながら、自らへの信仰=集客=財源の拡大を行なっていた。善光寺の布教活動で拠点となった寺や地域と善光寺との関係は、俗な表現をとれば「持ちつ持たれつ」であった。
  • 佐藤 隆
    2016 年 14 巻 p. 47-58
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
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    特別史跡大坂城跡に指定されている徳川期再建大坂城の地下には、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で焼亡した豊臣期大坂城があり、さらにその下位には大坂本願寺の中枢部があったと推定されている。本稿では、この地区の南半部から出土している5~7世紀の土器をもとに、上町台地の最北端に位置して大阪市内で最も標高の高い地点であるこの地区が、古代からいち早く開発され、5世紀の法円坂倉庫群や7世紀の前期難波宮の時期においても権力の中枢となる施設がおかれていた可能性が高いことを指摘した。
  • 演目復元と資料活用をめぐって
    澤井 浩一
    2016 年 14 巻 p. 0053-0060
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
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  • 発掘調査成果と『難波丸』、『難波丸綱目』との比較から
    杉本 厚典
    2016 年 14 巻 p. 59-78
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
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    考古学の調査成果と大阪案内記を比較して、近世大坂の産業分布について検討した。その結果、産業によって市街地に生産の場がとどまるもの、市街地の外縁部へ移動するものとに区別することができた。鋳物や瓦・陶器といった窯業、ベンガラ生産は18世紀以降、市街地の外縁部に移動した産業であった。一方、金属関連の産業の中でも銅の精錬は東横堀や長堀の堀川沿いに、鍛冶は消費地の多い所に生産の場があり、骨細工や硯などは市内各所で製作された。大坂城下町の市街地が拡大する状況で、生産物と生産規模によって、立地に変化が生じていることを具体的に描き出すことができた。
  • 船越 幹央
    2016 年 14 巻 p. 0061-0080
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
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  • 里浜貝塚1(骨角器)
    加藤 俊吾
    2016 年 14 巻 p. 79-98
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
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  • 木土 博成
    2016 年 14 巻 p. 0081-0089
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
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  • 博学連携をすすめるために
    釋 知恵子
    2016 年 14 巻 p. 99-104
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
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