大阪歴史博物館研究紀要
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15 巻
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  • 七世紀複都制解明の手掛かりとして
    村元 健一
    2017 年 15 巻 p. 0001-0018
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
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    古代難波は、日本の複都制を考える上で欠くことはできない地域である。複都制を考えるため、そのモデルになったとされる中国唐代の長安と洛陽を概観し、制度の実態に迫ることが本稿の目的である。隋から唐の高宗期にかけて、制度として複都制を取り入れたのは隋の煬帝と唐の高宗のみである。唐の洛陽は隋の煬帝が実質的に都城として築いた都市であり、唐がそのまま継承した。そのため、結果的に京師である長安に匹敵する都城として洛陽が並立することとなった。高宗は武氏立后後、洛陽重視が顕著となる。日本が中国の複都制を知ったのは、この高宗期であり、唐代でも長安・洛陽の力が最も均衡している特異な時期だったことになる。洛陽宮は再興の途中であったが、その規模は太極宮に匹敵するものであり、複都制とは同規模の都城が並び立つ制度と認識されたものと思われる。前期難波宮が飛鳥宮を凌駕し、後の藤原宮に近い規模を持ちえたのは以上の中国の状況によるのである。
  • 佐藤 隆
    2017 年 15 巻 p. 1-18
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
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    本論では、難波地域と飛鳥地域における土器の編年研究について現時点の成果を紹介した後、それぞれの土器の並行関係を詳細に検討し、暦年代を推定した。その結果、各々の段階ではどちらの地域の土器が質・量の面で優っているか、それがどのように推移するのかを明らかにすることができた。難波地域では7世紀第3四半期に良好な多くの資料が得られており、人々の活動が盛んで、宮域より外側へも開発が進んでいる。一方、同時期の飛鳥地域は良好な資料が少なく、7世紀第2四半期とは異なって低調に見える。反対に、7世紀第4四半期には難波地域では宮域周辺の土器が激減し、飛鳥地域では急激に土器が増えていく。こうした両地域の土器に見える流れによって、人々の動きが最も活発なところ—すなわち政治の中心—の変動が示されるとすれば、『日本書紀』が記す内容とは異なる歴史的事実の存在を認識する大きな手がかりとなる。
  • 大澤 研一
    2017 年 15 巻 p. 0019-0032
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
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    近世の融通念佛宗は中世社会に広く浸透した融通念仏信仰を背景に誕生した。すでに筆者は中世の摂津・河内に展開した融通念仏信仰集団の構造、および十七世紀に融通念佛宗が形成される過程を明らかにしてきたが、それは教団機構の変遷を跡づけることによる、教団史な視点からの検討が主であった。 今回はそうした視点ではなく、融通念仏信仰を受容する側に、民衆が中近世移行期の社会のなかでどのような宗教的充足を欲したのかという視点にたち、浄土宗との比較をおこないながら、専門僧による葬送や回向の実施による家の永続の保証という民衆から突き付けられた課題への対応が、近世融通念佛宗教団が誕生する過程において大きな原動力のひとつになったのではないかという見通しを示した。
  • 難波長柄豊碕宮の前夜
    栄原 永遠男
    2017 年 15 巻 p. 19-32
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
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    「難波屯倉」は、難波地域の歴史的展開を考えるうえで重要であるが、これまで十分に研究されてきたとは言い難い。その原因は、「難波屯倉」に付された「钁丁」とそれが持つ「钁」の理解に問題があったからである。これまで「钁」は農具であるので「難波屯倉」は農業中心のミヤケと考えられてきた。しかし「钁」は土木工事の用具とみるべきである。「難波屯倉」は、上町台地先端部の土地造成・開拓との関係で理解すべきであり、その結果できた土地や施設の総称とみられる。「難波屯倉」の機能・性格には時期的な変遷があった。 成立段階の「難波屯倉」は、難波津の管理、外国使節への対応、外交、上町台地先端部やその周辺地域の統治、倉庫とその収納物の管理機能などの多面的な性格を持ち、それに対応する諸施設が上町台地先端部の各所に分散配置されていた。しかし、その後、大郡・小郡・難波館・難波津の管理組織などが分立していった結果、難波長柄豊碕宮前夜の段階の「難波屯倉」は、上町台地先端部やその周辺地域の統治、倉庫の収納および管理を中心に存続していた。「難波屯倉」の中枢部は難波長柄豊碕宮の中枢部と重複する位置に存在していたとみられる。そのため、難波長柄豊碕宮の造営は「難波屯倉」の諸施設の解体・撤去すなわちミヤケとしての停廃によって進行した。これは、大化改新によるミヤケの廃止を具体的に示す事例である。
  • 加藤 俊吾
    2017 年 15 巻 p. 0033-0067
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
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    大阪歴史博物館に収蔵されている下郷コレクションは、かつて滋賀県長浜市に所在した財団法人下郷共済会が所蔵したものである。当コレクションに含まれる瓦経は出土地などの情報をもたず、これまでに公表されたこともないため、ほとんど知られることがなかった。本稿ではこれら瓦経を新例として報告するべく、校合およびその内容を検討を行った。その結果、これらが伊勢市小町塚瓦経と一連のものである可能性がきわめて高いことがわかった。そのなかには既出資料によって補完される書写内容をもつ個体も存在し、瓦経製作を考える上で興味深い資料といえよう。さらに、経典以外の書写内容をもつ個体が含まれていることもあらたに判明した。その内容は天台宗の僧・光宗(一二七六~一三五〇)による『渓嵐拾葉集』の一部と合致する。経典以外の内容をもつ瓦経をどのように捉えるべきか、今後に残された課題として注目される。
  • 飯田 直樹
    2017 年 15 巻 p. 33-52
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
    本稿は、近世大坂の各町で作成された水帳の、近代以降の伝来のされ方を仮説的に提示するとともに、土地台帳たる水帳において所有者の名義切り替え、すなわち帳切がいつまで行われたのかということを、現存する水帳を可能な限り調査し、明らかにすることを課題とする。 大半の水帳の帳切は明治12年(1879)2月までに終了しており、これは同年3月の区役所開庁と関係していることを指摘した。また水帳が区役所公文書として保管されていた事実も確認し、水帳の区役所への移管時期は区役所開庁の明治12年₃月であるとも推測した。 また明治12年2月以降も帳切が行われていた水帳が存在するものの、それでも帳切が確認できるのは明治14年2月までであった。 このような帳切の最終時期は、町が明治地方制度のなかで公的地位を喪失していく時期、すなわち三新法の時期と重なる。つまり町は、地方制度上の地位の転落と平行して、身分的共同体たる町の家屋敷取得規制という機能を失ったのである。また水帳が区役所へ公文書として移管されたという事実は、この地位の転落と平行して町の機能が区役所(官)によって「剥奪」されたことを示している。
  • 見世物・医学・美術を横断した近代大阪の奇才
    内藤 直子
    2017 年 15 巻 p. 81-94
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
    中谷省古は大阪の人形師であるが、その人物像や活動の詳細は知られていなかった。本稿は、特別展準備過程での調査成果をもとに、生人形興行、医学、美術といった諸点から資料を引用し、これらを付き合わせることで彼の幅広い活動の実態に迫ることを目指した。特に中谷省古をめぐる医学と美術、そして生人形興行との接点については、同時代の美術や社会の潮流に照らし合わせ、考察する。そのうえで、現存が確認できる唯一の作品「奥田ふみ像」や残された資料類から、省古の人物表現は、[外見を似せる]ことだけにとどまらず[内面をリアルに表現する]ことをも追求していたのではないかという見解を呈示する。
  • 庶民文化史の立場から
    船越 幹央
    2017 年 15 巻 p. 0083-0100
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
    明治二十五年(一八九二)時点で、大阪俳優組合に所属していた役者は四百四十六名いたが、現在でも記憶されている有名な役者は十パーセントにも満たない。本稿では、中村七賀之助、中村福円、岩井琴女の三人の役者を取り上げ、明治後期から大正初期にかけての大阪の観客の好みを考察する。中村七賀之助は、松島八千代座などの舞台に上ったが、旅興行で身に付けた誇張された演技を得意とした。中村福円は、大阪のみならず東京の小芝居でも活躍し、早替りや宙乗りといったケレンの芸で観客を沸かせた。岩井琴女は、東京の女役者・岩井九女八の弟子であるが、千日前の芦辺劇場で活動写真とキネオラマの余興として、「電気応用」の歌舞伎舞踊を披露し、多くの観客を集めた。これらの芸は、ある種の評者からは格の低いものとみなされたが、多数の観客に受け入れられていたことも事実である。大阪の芝居と観客の好みを考えるとき、このような役者や芸を分析することが欠かせない。
  • 木土 博成
    2017 年 15 巻 p. 0101-0120
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
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  • 館蔵資料集補遺
    澤井 浩一
    2017 年 15 巻 p. 0121-0130
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
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