哲学
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1957 巻, 7 号
選択された号の論文の10件中1~10を表示しています
  • 横井 敬一
    1957 年 1957 巻 7 号 p. 1-6
    発行日: 1957/03/31
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 自由の研究序説
    柿岡 時正
    1957 年 1957 巻 7 号 p. 7-12
    発行日: 1957/03/31
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 工藤 喜作
    1957 年 1957 巻 7 号 p. 13-22
    発行日: 1957/03/31
    公開日: 2010/01/20
    ジャーナル フリー
    ゲプハルトはスピノザの哲学をその時代の生活感情の表現たるバロック様式と対比せしめ、そしてバロック芸術の根本原理がスピノザ哲学の根本原理にもなるところから、それをバロックの哲学であると主張した.そのバロックの根本特徴が無限性を積極的に表現することにあるならば、我々もまた彼の哲学が、「無限」の存在を積極的に肯定し、無限に始まり有限の無限との合一をもって終る、無限の哲学であることを承認し得る.しかし彼はその時代の傾向として如何に数学、物理学に習熟していたとしても、デカルトやライプニッツの如き数学者、物理学者ではなかった.それにも拘らず彼が、無限に関する書簡に於いて「無限」を困難な解決し難いものであると論じ、その問題の解決のため無限を三種の見地から類別し考察したことは、彼の無限観が独自のものであったことを意味する.また「無限」が彼の哲学の根本問題である以上、そこでそれが如何に把握され、理解されるかを考察することなしに、彼の哲学は理解し得ないと思う.我々はここで彼の無限観を考察するにあたり、上述の書簡に於いて示された無限に関する三種の類別を参考にし、次のことを主として論じて行き度い.即ち先づ第一に実体の無限としての本性上無限と無限様態の無限、次に後者の無限が一面に於いて無限定的無限として見倣されることを指摘し、尚またその無限定的無限が彼の場合二種あり、それらが如何に区別されるか、最後に全体としての無限が如何に有限なる部分を含み、それを統一するかを論じて行き度い.
  • 加藤 将之
    1957 年 1957 巻 7 号 p. 23-31
    発行日: 1957/03/31
    公開日: 2009/07/23
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  • 本田 修郎
    1957 年 1957 巻 7 号 p. 32-38
    発行日: 1957/03/31
    公開日: 2009/07/23
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    ヘーゲルによれば、現実的なものはまた理性的である.現実のの理性的認識は、これを概念の必然性から理解することにほかならない、レーニンもその「哲学ノート」で、特にヘーゲルの次の言葉を重要視しているほどである.「現実の諸契機の総体、それが、展開するときは自己を必然性としてあらわす」そして、レーニンはここで、「注意せよ=弁証法的認識の本質だ」と、つけ加えている.もちろんその意味するところは異ってきているが、ヘーゲルもレーニンも、現実の展開の必然性を基本的なものとみた点は同じである。このような圧倒的な必然性の意義に対して、現実の外的な偶然性の面は、果してどれだけの重みを保ちうるであろうか.現在の非合理主義的な哲学や、現代の物理学、生物学に基ずく科学論やでは、偶然性の概念は依然重要な意味を持たされている.こういう際にヘーゲの弁証法が、偶然性の契機をどういう風にその必然論に統一したかを顧みることは、意義あるものと思われる.ここでは主としてヘーゲルの論理学に依りながら、考察を進めるが、その際便宜上から、九鬼周造氏の偶然論を対照してゆくことにした.
  • 橋本 峰雄
    1957 年 1957 巻 7 号 p. 39-46
    発行日: 1957/03/31
    公開日: 2009/07/23
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  • 加藤 裕
    1957 年 1957 巻 7 号 p. 47-54
    発行日: 1957/03/31
    公開日: 2009/07/23
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  • 高柳 茂
    1957 年 1957 巻 7 号 p. 55-61
    発行日: 1957/03/31
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    近代的形式論理学の最近の著しい発展に刺戟されたことも一つの原因に数えられようが、唯物弁証法もその歴史的遺産を再検討し、自己の論理形式を一層発展させようとする気運が近頃高まって来たように思われる.唯物弁証法が「思惟及び現実の論理」としての力を喪わない為にも、諸科学の発展に応じた諸原則の展開が常に試みられてゆかねばならない.
    ところで近代的な弁証法は伝統的形式論理学の内容的空しさから脱却し、その無力を克服する為に、近代的形式論理学の方向とは異ってカテゴリーの論理的価値を重視し、その批判的考察を自らの論理的主題に大きく取り上げた点に一つの著しい論理的特性を持つと考えられよう.唯物弁証法も、このドイツ観念論特にヘーゲルが試みた課題の成果を批判しつつ、又幾多の点で基本的に継承しているが、所謂「量質転化の法則」も受け継がれた主要なものの一つである.
    この小論は「量質転化の法則」に対するサルトルの批判から出発し、苦干の問題点を取り出した上で二三の弁証法的思想家の見解に対比しつつ検討を加え、質と量のカテゴリーの多義牲に少しでも光を与えることを目的とする.
  • 資本論の方法による資本制哲学の分析 (1)
    山田 宗睦
    1957 年 1957 巻 7 号 p. 62-75
    発行日: 1957/03/31
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 務台 理作
    1957 年 1957 巻 7 号 p. Preface1
    発行日: 1957/03/31
    公開日: 2009/07/23
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