今日ヤスパース解釈は殆んど例外なく一義的である.ヤスパースの哲学的思惟をカント以来アポリアとなった形而上学の可能性について一つの解答を与えるものとする者も、ヤスパース哲学をもって己に破砕されたブルジョワ的個人主義の意識的反映に他ならぬとする者も、ヤスパースの哲学的活動の首尾一貫性を自明のこととして前提した上での批評である点では共通している.曰く「ヤスパース哲学は独自の哲学体系を築かうとする意志をもつのでなく、哲学の固有な根本意義を反省しようとするものである.」又「人間の実存の深淵を開明し、自己存在の超越者への飛躍を準備するものである」、或いは「存在の廃墟に実存の充実を対置させるものである (がそれ以上の積極的な主張を持たぬ) などなど.
この何れの観点からのにせよ一義的である解釈は、その一義的である故にまさにその限りでの承認しうるものをもっている.しかしまたそれらはヤスパースと同調するにせよ対立するにせよ、同時代性という根において事実上多義的な連関をもっている事態を見落した解釈であるせまさを内包しているのである.
われわれは先ずヤスパースについてのこうした一義的な解釈に反対する.それはヤスパースを「わがものとする」途ではありえない故に.またそれは、同じことであるか, 哲学的ジャンルの多様性を抹殺してしまうものであるが故に.
(1) ヤスパース肯定者は多かれ少かれ、このことを中心とした解釈を展開している.
(2) マルクス主義からの批判、ルカーチ等.
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