人間機械論という語が一応の確定的な内容をもつものとしてわれわれの言語の中に既に定着しているものであるか否かはかなり疑問である。しかし、この語がさまざまな文脈の中で新しい積極的な意味を荷うものとして語られる機会がここ数年来かなり'増えてきていることはまた事実である。そこにおいては人間機械論とは、単に人間を機械として解釈するというよりは、むしろ、「人間」、「機械」という二つの語をキー・タームとして行なわれる社会分析であり、また文明批判であることが多い。すなわち、われわれの住む現代、未来の世界を人間と機械が共生する生態系と考え、いわばこのマン・マシン・システムにおける人間、および機械の役割、意義について検討しそこから逆に人間、機械というものの本性を探り出して行こうという態度を示すものとして人間機械論を理解するのが現在という時点では正当であるように思う。
したがって、人間機械論の哲学というものがあり得るとすれば、それは、このような拡大された全体を覆うものでなければならない。しかし、本稿においてはむしろ、このような拡大された人間機械論の態度の根底にあたかも自明のものの如く存在し、かつ、哲学の現状からすれば今もなお、やや、挑戦的なひびきを持つように見える「人間は機械である」という基本テーゼをとりあげ、そのテーゼの最も新しい意味において、依然として哲学的問題としての権限を保持していると思われるものの中、とくに重要とみられる数項目に焦点をしぼって以下概論してみたい。
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