形而上学がどのような存在理由をもつか、あるいはもたないかという問へのわれわれの答は、「形而上学」という言葉の中身のとらえ方いかんに、ほとんどそのすべてがかかっているといってよい。漠然と一口に「形而上学」といっても、その実際のありようはさまざまであり、存在理由の有無を有効に語るためには、どのような形而上学についてそういえるのかという、当の「形而上学」の内実を明確に規定しなければならない。
ただし、この「形而上学」 (Metaphysics, Metaphysik, etc.) という言葉は、はっきりとした歴史的な由来をもった言葉である。つまり哲学の歴史のあるときから、ある学問の内容と課題を示すために新しく用いられるようになった名称である。とすれば、われわれ自身が形而上学の内実をどのようにとらえようとするにしても、まずこの歴史における大本のあり方を押えて、われわれ自身の理解しようとする内容がその物差しに照らしてどのような意味をもつかを、できるだけ確定的に提示することが望ましいであろう。この手続きによってわれわれの理解が公共性を獲得し、恣意的であることを免れるというだけでなく、人間が世界を知ろうと努め始めて以来今日に至るまでの、「形而上学」をめぐる哲学的営為の長い行程のあり方を全体的に術瞰して、照明を当てるための視座を得ることができると期待されるからである。そしてまさにそのことによって、形而上学的思惟が本来もつべきあり方を規定しようとするわれわれの努力そのものが、そのまま同時に、現代の状況に対するできるだけ有効な哲学的対処としての意味をもつことが目指されなければならない。「存在理由」は、そのことのうちにおのずから示されるであろう。
そのような課題を望見しつつ、しかし以下において試みられるのは、そのためのささやかな一基礎作業である。
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