哲学
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1976 巻, 26 号
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  • 大出 晁
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 1-16
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    この報告は四部に分れる。第一部では、主として、現代論理学の標準的なモデル論的枠組みについて概観する。モデル論を取りあげるのは、与えられた課題に対応するものは現代論理学のこの側面だと考える私の見解のためである。第二部においては、このモデル論的枠組みを前提としたうえで、伝統的に「存在」の問題とよばれてきたものに一応の検討を試みる。第三部においては、とくに現代論理学との関連において今世紀初頭以来論じられてきた「存在」の問題、いわゆる単称存在言明と記述理論とについて議論したい。最後の第四部においては、同一性の問題を考察した後に、主要な論点を要約する。
  • 中村 秀吉, 加藤 尚武
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 17-20,31
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 久野 昭
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 21-30
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 稲垣 良典
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 35-50
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 藤本 隆志
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 51-66
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    壁にかかった (たとえば) ゴッホの作品に見入っているとき、わたくしの感じとっているのは、単にさまざまな色や形をした顔料の連続体ではない。そのような顔料連続体を媒体にしながらも、その向うに、壁をつきぬけて拡がっている別世界、いわば「ここ」にある極めて「日常的」なカンバスや顔料や壁やを切り披いて「かなた」に開ける「非日常的」な世界である。(もともと「ここ」から「かなた」を見通すことper-spicereが「遠近法」ということの意味であった。)
    同様にして、ベートーベンのソナタも、リルケの詩も、たとえば物理学の視点からすれば確かにさまざまな音波や線模様の系列にすぎないけれども、しかし、本来そのようなものとしてわれわれに聞え、あるいは読めるのではない。それらは、われわれを否応なしにとらえ、この凡庸で可変な日常性の此岸から、かの非凡で不変な非日常性の彼岸へと、われわれをいざなう。あるいは、「現実 (actual) 」のこの世界とは似て非なる、別の可能な世界を「真実 (real) 」なものとして、われわれに覚知させる。
    この事情は、与えられた対象が芸術作品である場合に限らない。ひとの気高い行為に心を打たれているときにわれわれが見てとっているのは、そのひとの単なる身体の姿勢や運動経過だけではないし、孤島の断崖に立って青い海と空の地平に身をゆだねているときにも、われわれの覚知しているのは、化学的なH2Oや、ある種の混合気体の大塊が反射している太陽電磁波の一部なのではない。そのような姿、形、色、運動経過のごときがわれわれの全視野を蔽っているにもかかわらず、われわれはそれらの「かなた」ないし「背後」へと瞳をこらさざるをえないであろう。あるいは、そのような思いを生じさせない自然現象や人間のふるまいを、さして価値あるものとは感じないであろう。
    このように、われわれにとって「価値あるもの」とは、われわれのまなざしをとらえて放さず、「ここ」に「いま」あるこの世界から、「かなた」の「永遠」なる世界へとわれわれをいざなうもの、とは言えないであろうか。あるいは、少なくともそのような永遠世界との関わりの覚知度に応じて、与えられた物事の日常的な比較考量がなされ、価値の順序づけがなされ、毀誉褒貶が行なわれているのではないだろうか。
    とは言うものの、翻って、それら価値あるものを価値あらしめているもの (「価値」ないし「よさ」) がいったい何であるのか、と問われたりすると、われわれはたちまち困惑してしまう。こうした問いに敢て答えようとすれば、与えられたこのものの色や形がどうの、音調がどうの、動きがどうの、自分の感じがどうの、といった諸事実を、いわば評論家ふうに言挙げし、列挙する以外、全く方法がないからである。
    問うこと、答えること、いずれも言語に依らないではできないことであるけれども、その言語は、与えられた物事を諸側面へ分割 (分別) した上で繋ぎ合わせるようなつくろい仕事に適しているだけで、与えられた物事の全体を一つのものとしてじかに記述することができない。一なる全体をそれとして示すためには、それをそのつどの個有名で呼んでみるか、あるいはさまざまな言辞を弄し、雑多な部分から成るモザイク模様でこれを表現すべく努力するかする他ない。詩人はもとより、画家や音楽家も、ともに有りあわせのことばや顔料や音響やを組み合わせて、与えられたこの何かを再現 (represent) し、あるいはそこへ立て (dar-stellen) ようとしているのではないだろうか。そして、もし哲学が言語なくしては存立しえないとすれば、哲学もまた (その愛や意図や希求を別にすれば) 畢竟ことあげのモザイク模様をみずからの作品として提示しようとする凡夫の業に他ならないであろう。にもかかわらず、この業なくしては何事も問えず、語れず、理解できないということ、これこそ「言語をもつ動物」に個有の宿命と謂うべきではなかろうか。
    以下、「価値あるもの」がいわば受動的に与えられて生ずる評価ないし価値認知の場面と、これを能動的に実現しようとする行為の場面のそれぞれにおいて、「価値の問題」がどのように立ち現われてくるか、つぎはぎ模様ながら素描しておきたい。
  • 神川 正彦
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 67-82
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 田中 千里, 川野 洋, 飯田 年穂, 岩佐 茂, 岩淵 剛, 島田 〓子
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 83-94
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2010/01/20
    ジャーナル フリー
  • 天野 正幸
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 95-106
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2010/05/07
    ジャーナル フリー
    『テアイテートス』においては、επιστημηはイデアの直接知 (そのidentification) に存する。というふうに考えられていた。そこで、偽なるδσξαをイデアのmisidentificationとして規定するという試みがなされたのであるが、それは結局不成功に終ってしまった。これに対して『ソフィステース』においては、「偽を語るとはなμη ον (あらぬもの) を語ることである」という規定が再び取り上げられ, μη ονの意味の解明を通して終にはφευδοσf;の正しい規定が達成されるのであるが、その過程は、プラトーンが新たなεπιστημη理解に到達したことを示している。その新たなεπιστημη理解を明確にすることがこの論文の目的である。
  • 人類滅して, 時間在り
    木村 昭一
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 107-117
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 奥村 敏
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 118-127
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 渋谷 久
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 128-138
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 中島 徹
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 139-150
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 尾関 周二
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 151-162
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 佐藤 和夫
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 163-172
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 野本 和幸
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 173-185
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    小論において吾々は先ず、関数による構造化というフレーゲの着想を生かしつつ、フレーゲ言語の再構成を試み、次いでフレーゲのSinnなるものの少くとも一側面は、名前とある可能的世界からその可能的世界内でのBedeutungへの関へ数とみなすことにより正確に表現しうること、およびこの関数の同一性・外延性を示し、最後に信念文などの量化様相文にまつわる「代入可能性」や「存在汎化」、「交叉同定」といった難問について、フレーゲの一つの見地の批判的継承とみられるヒンティカの試みを紹介することにする。
  • ルサンチマン概念をめぐって
    駒井 義昭
    1976 年 1976 巻 26 号 p. 186-198
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
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