プラクティス(実践)が重要であるのは、それを通じて新たな仮説が形成されるからである。そしてどんな実践も、人間の行為もその成果としての財も、イメージ特性を通じて、かならずや公共的な性格のものとなる。この公共性を歴史的に担保するのが国家にとっての「公共財の下部構造」ということになるのだが、それは同時に、国家の未来像を提示するという意味で国家の上部構造を示すことになる。こうした条件が整っていてはじめて「市場の成立」が可能となるのであって、はじめから「市場ありき」と想定して、それが効率的に処理できないことをもって「市場の失敗」とみなし、公共財(の需給)をもその失敗に繰り入れるというのは経済学の大いなる錯誤である。人間は時間意識を持って、つまり過去に遊及し未来を展望することを通じて、現在を生きる。そういうものとしての人間およびその社会的には安定性が必要条件となる。確率予測の可能性リスク(危険)にたいしては市場は対応できるとしても、そうした予測すらが不可能なクライシス(危機)が人間・社会に襲来するかもしれない。それに対応できるのは、国家による公共政策の実践のみである。ただし国家とは国民と遊離した制度のことではない。国民の公共心を代表するのが政府であり、その「国民と政府」をまとめて国府(=国家)と呼ぶのである。その意味での「国家による公共政策の実践」、それこそが二十一世紀文明の命運を左右することになるに違いない。
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