放射線化学反応は,反応に影響を及ぼす物理定数やパラメータが多数にわたり,さらに放射線の種類によっても反応の初期の活性種の分布等が異なるため,その完全な理解のためには非常に複雑でかつ高度な知識が必要となる。そのため,この分野の研究者以外からみると,汚い科学という汚名を着せられたりもしてきた。しかし,放射線を使った産業,医療等への応用技術が大きく広がっている現在では,放射線化学の全知識を動員した反応への理解が極めて重要な状況を迎えている。放射線化学研究に求められる要請はますます深まるものと考えられる。本稿ではできる範囲で、この複雑な放射線化学の体系を概観した。
放射線化学の全貌を理解するためには,放射線照射直後から引き起こされる化学初期反応過程の解明と初期反応によって生成された中間活性種の検出,収量の正確な測定が必要不可欠である。本章には,高速パルスラジオリシスの測定技術とそれを用いた短寿命中間活性種の検出について概説する。
放射線化学反応(放射線照射への物質応答)の定量的な研究を進めるために,反応に関わる放射線の物質への付与エネルギー量を知ること,可能ならその吸収体内でのエネルギー分布を知ること,が必要である。これらの量を決定する事が線量測定の役割である。その手法には,カロリメトリー,電離箱,化学線量計等の方法があり,近年ではモンテカルロ法を用いた放射線輸送計算に基づく線量評価も行われるようになっている。
水や水溶液の放射線化学研究は,放射線の発見から間もない20世紀初頭から長年にわたって続けられてきた。工学,医学等に幅広く共通する課題を含み,初期過程から最終生成物に至るあらゆる過程が調べられてきたが,溶媒和等の高速過程や374°C以上の高温での超臨界水中での反応機構など,なお未知の素過程を内包し,1世紀以上経った今でも研究対象であり続けている。本節では,水や水溶液の放射線化学の歴史や基礎過程,アプローチを含めた研究全体について解説する。
パルスラジオリシスやγ線分解などの放射線化学的手法は反応機構の解明において非常に強力であり,その適用範囲はきわめて広く,小分子から,π-共役分子,高分子の反応,触媒反応,さらには生体分子の構造変化・反応などにも及ぶ。本稿では,前半に放射線化学反応の基礎的反応機構についてまとめ,後半にその広い応用例としてわれわれの研究を中心にまとめた。
凝縮系において放射線によるイオン化と熱化,その後のラジカルカチオンと電子のジェミネートイオン再結合について,簡潔に記述する。ジェミネートイオン再結合するか,逃れてフリーイオンとなるかは,熱化距離と,Coulomb相互作用の実効的な到達距離を示すOnsager距離の大小関係でおよそ決まる。これらのkineticsは,中心力場中の電子とラジカルカチオンのBrown運動を表すSmoluchowski方程式で表される。これは,電子・ラジカルカチオンの拡散定数,誘電率,系の温度と熱化分布関数等の物性で決まる。ジェミネートイオン再結合の測定結果を解析することにより凝縮系でのラジカルカチオンと電子の拡散定数と,熱化分布関数を得ることができる。
固体試料への放射線照射による初期化学過程に関する理解は,低温固相のマトリックス単離(MI)法を用いた不安定化学種の分光測定により飛躍的に深まった。本稿では,低温固相MI単離ESR法について簡単に説明し,固体アルゴン中でのメタンの4 K放射線分解で生成するCH3·ラジカルやH…CH3ラジカル対などの不安定常磁性種の高分解能ESRスペクトルを示し,それら化学種が生成する反応素過程について概説する。
高分子への放射線照射効果は,1940年代後半に新たな高分子改質法として注目を集め,その現象解明や評価法の確立,工業への応用が活発に進められ,現在では多数の実用化例につながっている。本章では,その歴史的経緯と共に放射線照射によって生じる特徴的な現象及びその評価法を概観する。
放射線照射によるDNA損傷の中でもDNAに溶媒和している水分子のイオン化により生成するH2O·+とDNAの反応過程が重要である。その中でも,糖–リン酸部位のラジカルの生成がDNA主鎖の切断を引き起こす。放射線化学反応の特徴である低エネルギー電子とDNAの反応や,修復することができない複数個の損傷が局在化して生成するclustered damageについて紹介する。
放射線化学における水のラジオリシスのDNA損傷モンテカルロシミュレーションへの応用と,実際の照射細胞核内に生成したDNA二重鎖切断を可視化して定量化した研究を紹介し,放射線化学と放射線生物学のインターフェースの進化,それに伴う低エネルギー電子の理論の進展などについて紹介する。また,雲の生成に関する放射線化学実験が地球温暖化を含む気象学にも大きく影響している例も紹介する。
医学・産業利用が近年拡大しているイオンビームは,イオン種(元素)とエネルギーの組み合わせ次第で多様な照射効果が表れる。本稿では,イオンビームの最大の特徴である高い電離密度(トラック構造)と原子衝突について概説する。水中でのトラック構造と水分解生成物の収量の相関,結晶材料中の典型的な損傷形成過程のほか,今後の展望として未解明の課題にも触れる。