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安澤秀一初代会長を偲んで
資料紹介
  • ―米国国立公文書館所蔵史料から見た一断面―
    落合 功
    2025 年 88 巻 p. 13-26
    発行日: 2025年
    公開日: 2025/05/13
    ジャーナル 認証あり

    米国国立公文書館には戦前期に紐育で活躍していた総合商社の史料が多く残されている。同史料群は日本の対外貿易を担った総合商社に対し、戦争相手国としての日本の資力、軍事力等を把握するため、経営資料を押収したものである。これは各国で行われていたが、米国が押収した日本企業は三井物産、三菱商事をはじめとした14商社 5 銀行におよぶ。これらの史料群を「在米日系企業接収文書」といい、これらを利用した研究成果も多い。

    本稿で扱う大倉商事紐育支店(大倉組)の史料群も接収文書の一つであり、紐育支店の活動を如実に示している。大倉商事にとって紐育支店が米国との取引の中心であり、また中南米への市場進出の足掛かりを紐育支店が担っていた。これまでもいくつか成果があるが、筆者は、これら調査の成果を整理し、大倉商事紐育支店の動向を明らかにし、戦前における総合商社の役割を展望することを目指している。本稿もその一環としての成果であり、大倉喜六郎(大倉組頭取喜七郎の長男)の海外生活について紹介したものである。

    大倉喜六郎は、明治43年 6 月 3 日に喜七郎の長男として生まれた。大倉組の創業者である大倉喜八郎の孫で、昭和10年、東京大学理学部数学科を卒業した。本稿では、この次代の大倉組の総帥を担うはずの大倉喜六郎が、第二次世界大戦直前に欧米で過ごした生活の様子について米国国立公文書館所蔵の大倉組関係史料から紹介したい。

    本稿で扱う大倉喜六郎がロンドン・紐育で滞在した期間は、日・独・伊三国同盟が締結(昭和15年 9 月)された一方、ルーズベルト大統領が 3 選を果たし(同年11月)、イギリス支援を強化した時期であった。日本に対する欧米の世論は悪化しつつある時期であった。このため、紐育在住のビジネスマンも家族がある場合、家庭の事情を理由に帰国するものも多くいた。

    このため昭和15年の秋ごろから、日本からの視察旅行者は激減し、ほとんど皆無の状態であった。民間人で紐育に滞在を希望する場合、すぐに注目された。とりわけ工作機械関係の視察があった時には、厳しい照会がなされている。さらに、国内で大政翼賛会が発会されてからは、紐育在留邦人自体が一挙手一投足に自粛・自戒している状態であった。大倉商事紐育支店も、経済封鎖等の緊張が迫る中、万一に備え、紐育支店の業務も緊張してきていた。

    こんなとき、大倉喜六郎という大倉組の三代目が倫敦から紐育に移動し活動することになった。紐育支店としても、将来を展望する上でも、できる限りの世話をすることにしたのである。

    これは、太平洋戦争直前でありながら、創業者たる大倉喜八郎が米英で諸制度を見聞し、その後大倉組を創立した。喜六郎もまた、将来の大倉組総帥を担う人物として、見聞を深めることを社員一同期待していたのである。かかる喜六郎の活動を紹介したい。また、喜六郎は東京大学を卒業したのち、山本千代子と結婚し、行動を共にしている。山本千代子は海軍の重鎮山本権兵衛の孫娘であり、紐育支店長も財政家として知られる目賀田種太郎の次男目賀田重芳である。かかる閨閥形成の実態についても展望する。

動向
  • 石井 幸雄
    2025 年 88 巻 p. 27-30
    発行日: 2025年
    公開日: 2025/05/13
    ジャーナル 認証あり

    タクソノミーは分けること、クラシフィケーションは集めることを意味している。分けることと集めることは、正反対の概念だが、一つの行為の表と裏である。しかし、プロセスには大きな違いがある。前者は軍隊のように大隊 - 中隊 - 小隊とトップダウンで区分するプロセス、後者は、先ず集めて、集めたものにボトムアップで小 - 中 - 大と序列をつけるプロセスである。

    自治体では公文書の評価選別をする際、廃棄すべきかアーカイブズとして残すべきか迷うことがあるとよく耳にする。即時検索ができないものは分類ではない。では、どちらが探しやすいだろうか。

    本稿は、自治体のファイリング方法について問題提起し、公文書の評価選別作業の効率化に資することを目的としている

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