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宗教研究
Online ISSN : 2188-3858
Print ISSN : 0387-3293
ISSN-L : 2188-3858
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99 巻 (2025)
1 号 p. 1-
98 巻 (2024)
3 号 p. 1-
2 号 p. 1-
1 号 p. 1-
Suppl 号 p. 10-
97 巻 (2023)
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96 巻 (2022)
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95 巻 (2021)
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1 号 p. 1-
Suppl 号 p. 9-
94 巻 (2020 - 2021)
3 号 p. 1-
2 号 p. 1-
1 号 p. 1-
Suppl 号 p. 8-
93 巻 (2019 - 2020)
3 号 p. 1-
2 号 p. 1-
1 号 p. 1-
Suppl 号 p. 12-
92 巻 (2018 - 2019)
3 号 p. 1-
2 号 p. 1-
1 号 p. 1-
Suppl 号 p. 12-
91 巻 (2017)
3 号 p. 1-
2 号 p. 1-
1 号 p. 1-
Suppl 号 p. 13-
90 巻 (2016)
3 号 p. 1-
2 号 p. 1-
1 号 p. 1-
89 巻 (2015)
3 号 p. 421-
2 号 p. 191-
1 号 p. 1-
Suppl 号 p. 12-
88 巻 (2014)
3 号 p. 521-
2 号 p. 239-
1 号 p. 1-
Suppl 号 p. 12-
87 巻 (2013)
3 号 p. 497-
2 号 p. 249-
1 号 p. 1-
Suppl 号 p. 13-
86 巻 (2012)
4 号 p. 734-
3 号 p. 505-
2 号 p. 191-
1 号 p. 1-
85 巻 (2011)
4 号 p. 835-
3 号 p. 623-
2 号 p. 237-
1 号 p. 1-
84 巻 (2010)
4 号 p. 839-
3 号 p. 637-
2 号 p. 205-
1 号 p. 1-
83 巻 (2009)
4 号 p. 1091-
3 号 p. 741-
2 号 p. 289-
1 号 p. 1-
82 巻 (2008)
4 号 p. 825-
3 号 p. 663-
2 号 p. 223-
1 号 p. 1-
81 巻 (2007)
4 号 p. 785-
3 号 p. 531-
2 号 p. 211-
1 号 p. 1-
80 巻 (2006)
4 号 p. 815-
3 号 p. 573-
2 号 p. 221-
1 号 p. 1-
79 巻 (2005)
4 号 p. 893-
3 号 p. 629-
2 号 p. 231-
1 号 p. 1-
78 巻 (2004)
4 号 p. 915-
3 号 p. 715-
2 号 p. 217-
1 号 p. 1-
77 巻 (2003)
4 号 p. 801-
3 号 p. 535-
2 号 p. 243-
82 巻, 2 号
宗教批判の諸相
選択された号の論文の24件中1~24を表示しています
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編集意図(<特集>宗教批判の諸相)
編集委員会
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. i-ii
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_i
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(156K)
宗教学の成立と宗教批判 : 富永仲基・ヒューム・ニーチェ(<特集>宗教批判の諸相)
島薗 進
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 223-245
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_223
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宗教学は近代文明に対するオルタナティブの探究を基本的なモチーフとして抱え込んでいた。宗教は理性の限界や近代社会の抑圧性に悩む人々に、ある種の魅惑を帯びたものとして現れた。だが、他方で宗教研究は宗教批判の中から生まれてきたものでもある。宗教の抑圧性を見抜くことが宗教学の形成と展開の知的動機の一部ともなっている。宗教学は宗教批判と近代批判をともに含み込むことによって先鋭な知の地平を切り開くことができたと考えられる。本稿では宗教批判と近代批判とを結びつけるような視点をもった先駆的思想家として、富永仲基、ディヴィッド・ヒューム、フリードリッヒ・ニーチェを取りあげる。彼らの宗教批判は、いずれも人類史における宗教の重要性を痛切に認識するが故にこそなされている。宗教が人間性に奥深い動因をもち、容易に克服しがたいものであると考えられており、人知の進歩により宗教は衰退してしまうと予見されているわけではない。むしろ理性の限界が強く意識されており、だからこそ宗教は人間性に深く根を張っていると考えられている。宗教を深く理解する必要があるのはまさにその故なのだ。
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(1382K)
宗教についての思索と宗教批判 : 西田幾多郎の思想を手がかりに(<特集>宗教批判の諸相)
藤田 正勝
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 247-266
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_247
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宗教に対する批判は、正面から宗教の無意味性を語るという仕方でなされる場合もあるが、しかし明示的に語られる場合だけでなく、宗教の意義について語りつつ、その言説が実質的に宗教に対する批判を含意するということもありうる。というのも「宗教」一般について語るという行為は、個々の実定的宗教に対する批判をそのうちに含みうるからである。それを批判し、そのあるべきあり方を語るという文脈のなかで「宗教」ということがもちだされうるからである。たとえば西田幾多郎の宗教論のなかにわれわれはその例を見ることができる。西田がその思索のなかで宗教に重要な意味を与えていたことは明らかであるが、西田が宗教について語るときに念頭にあったのは、具体的な個別の宗教のことではなく、彼が宗教のあるべき形態として考えるものであった。そのあるべきものについての論述は、宗教の具体的形態に欠けているもの、あるいはそこで実現されていないものについての認識を踏まえての論述であり、個別の宗教への批判を内包するものであった。
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(1132K)
<日本宗教史>を脱臼させる : 研究史読解の一試論(<特集>宗教批判の諸相)
磯前 順一
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 267-292
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_267
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日本宗教史という概念は明治末年に英語圏の読者に向けて英語として鋳造されたものであり、その後日本語に翻訳された。しかし、そこで含意される日本固有の宗教というナショナリズム的な排他性が戦後の研究者たちには敬遠されたこともあって、日本の宗教研究のなかでは好んで取り上げられる主題としては定着してこなかった。だがその一方で、キリスト教、仏教、神道、新宗教、民間信仰などの具体的な個別研究のなかでは、日本宗教の在り方が超越的なものと土着的なものの交渉過程として把握される試みが行われてきたともいえる。そこにおいては日本宗教は諸宗教の異種混交の場として捉え直され、最終的には超越的なものと土着的なものの二項対立、さらには日本宗教や個別宗教の単位自体が脱臼されつつあると言えよう。
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(1673K)
新宗教批判の歴史的変遷 : 天理教、創価学会、オウム真理教を事例に(<特集>宗教批判の諸相)
島田 裕巳
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 293-316
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_293
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近代の社会に入って、新宗教が登場して以降、そうした教団は、さまざまな角度から批判を受けてきた。この論文では、新宗教の先駆的な形態である天理教からはじめて、戦後に巨大教団に発展した創価学会、そして無差別テロを実行するまでにいたったオウム真理教をとりあげ、それぞれの教団がどのような形で批判を受けてきたのかを見ていく。天理教の場合には、神懸かりする教祖を盲信する淫祠邪教の集団として批判され、批判の主体はメディアと既成教団だった。創価学会に対しては、最初既成仏教教団が批判を展開したが、政界進出後は左翼の政治勢力からも批判を受け、言論出版妨害事件以降になると、メディアが創価学会批判の中心になった。オウム真理教に対しては、最初からメディアが批判的で、一時は好意的に扱われた時期もあった。近年では、オウム真理教の場合に見られるように、メディアが新宗教批判の主体で、そこには社会の新宗教観が反映されている。
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(1433K)
宗教批判の類型と意義 : フォイエルバッハ、バルト、西田の宗教批判(<特集>宗教批判の諸相)
浅見 洋
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 317-340
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_317
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思想史的意義をもつとみなされてきた宗教批判は、宗教そのもの、特定の宗教、ないしはある教派の真理性を否定することによって、真理性をもつと考えられる何ものかを肯定しようとする思想的な試みである。だとすれば、宗教批判は宗教に関する真理問題と関わっていくつかの立場に類型化することが可能だと思われる。本稿では無神論的立場、絶対主義的立場、包括主義的立場からなされた宗教批判として、L・フォイエルバッハの無神論的宗教批判、K・バルトの神学的宗教批判、西田幾多郎の哲学的宗教批判を取り上げ、各々の宗教批判の構造とそれらの関連性に論及する。それによって、フォイエルバッハの宗教批判は人間学の構築、バルトの宗教批判は神学の再興、西田の宗教批判は宗教の説明をめざした肯定的、創造的な作業であったことを明らかにする。
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(1479K)
宗教批判の今 : いったい何を批判するのか?(<特集>宗教批判の諸相)
津田 雅夫
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 341-359
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_341
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宗教批判の概念は独自の背景的な思想史的文脈のなかに成り立つ。日本思想において宗教批判の構想が、いかなる意味で成り立ちうるのか。本稿において私は宗教批判の概念を明らかにしようと試みた。そして独自の思想伝統を探るべく、まず三木清の宗教批判が「日本近代」へのラディカルな問いかけ(疑惑)に基づくものであったことを、戦前期日本の思想的到達点として確認し、その関連で近代啓蒙の遺産としてのマルクス主義と精神分析による宗教批判を取り上げ、遺産継承の仕方について考えた。最後に現代宗教批判の焦点として、「日常性の宗教」としての「国民(市民)宗教」を取り上げ、そのラディカルな批判の可能性について、「無」と「自然」の二つの概念が孕む両義性に着目しながら考察した。
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(1177K)
改革派認識論から何を学ぶか(<特集>宗教批判の諸相)
上枝 美典
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 361-382
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_361
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証拠主義の観点からの宗教批判に対して宗教的信念は証拠を必要としないと論じる改革派認識論は、合理性についての通常の理解に根本的な反省を促す興味深い議論を数多く提供する。本論ではその一人であるウィリアム・オルストンの議論に照準を合わせ彼の思想を紹介すると共にそれに対する批判を試みる。彼は(一)宗教的信念は日常の経験的信念と同程度に正当化される、(二)日常の経験的信念は合理的である、という二つの命題から(三)宗教的信念は合理的である、という結論を導く。本稿では(一)を認めながら(二)を否定することによって(三)を否定することを目指す。日常の経験的信念が合理的であるとしても、それは認識的な意味で合理的だと言えるのだろうか。外界を正しく伝えることにおいて、私たちの感覚経験はどの程度信頼できるのだろうか。日常の経験的信念と同程度に正当化されることだけから宗教的信念の合理性を導くのは誤りである。
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(1245K)
ヤスパースの宗教批判 : キリスト教の「啓示信仰」との対決(<特集>宗教批判の諸相)
中山 剛史
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 383-408
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_383
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ヤスパースの哲学は、実存と超越者とのかかわりにもとづくきわめて「宗教性」の高い哲学であるといいうるが、他方において、ヤスパースは哲学と宗教との相違を強調し、みずから「哲学」の立場に立って、権威への服従に基づく「宗教」に対して鋭い批判を行っている。とりわけ、「神が人となった」というイエス・キリストにおける神の「啓示」を唯一絶対の真理とみなすキリスト教の「啓示信仰」に対して、超越者の「暗号」を聴きとる「哲学的信仰」の視点から批判的な対決を行っている。ヤスパースは「啓示信仰」に対して、(1)神人キリストの放棄、(2)啓示の暗号化、(3)排他的唯一性の放棄という「三つの放棄」を要求するが、これは「啓示信仰」を「哲学的信仰」へと解消させることではなく、むしろキリスト教が教義への束縛と排他性の要求から脱け出て、その根源にある「真摯さ」へと立ち還ることを呼びかけるものである。ヤスパースの宗教批判の意義は、異なった信仰の根源同士が相互に出会いうる開かれた対話の道を開くことにあるといえよう。
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(1512K)
聖書学は<イエス批判>に向かうか : 「宗教批判の諸相」に寄せて(<特集>宗教批判の諸相)
佐藤 研
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 409-426
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_409
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キリスト教の内部批判として二百年以上前に誕生した「聖書学」は、歴史学と人間学に基づいた学問である。そうであれば、現段階に至って、その「批判」の対象を、キリスト教会や聖書文書だけに留まらず、人間イエス自身にも向けるのは当然と言わねばならない。教祖をあえて批判するという「不敬」こそ、今のキリスト教のキリスト論には必要と思える。それによって初めて、イエスの何が重大なのかが反省されるであろう。そもそもイエスは、人間として幾度も飛躍して最後の刑死の姿に至った。そうであれば、いわゆる公生涯の大部分において彼が語った言葉も、究極の妥当性を持ったものばかりではない。そこには、その終末論的時間感覚のごとく現在の私たちにはそのままでは通じないものもあれば、その威嚇的態度や自己使命の絶対化とも思える意味づけ等、教会が暗黙の内に真似をして悲劇的な自己尊大化を招いたものも存在する。現代の私たちは、こうした面のイエスに直線的に「まねび」の対象を見出してはならない。むしろ、そのゲツセマネの苦悩を通過した後、ゴルゴタで絶叫死するまでの沈黙から響いてくるものをこそ最も貴重な指針として全体を構成し直す必要があると思われる。
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(1154K)
フィランスロピアとキリスト教批判の諸相 : 最初の四世紀における迫害・受肉・救貧を巡って(<特集>宗教批判の諸相)
土井 健司
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 427-447
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_427
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本稿では、「フィランスロピア」を手がかりに、最初の四世紀に見られるキリスト教批判について考察する。キリスト教を「人類憎悪」(ミサンスロピア)としたローマ社会の批判、中傷、迫害のなかで二世紀の弁証家ユスティノスはフィランスロピアの神ならびにその模倣としてキリスト者の道徳性を弁明する。また神の受肉を善から悪への変化と捉えて批判するケルソスに対して、三世紀のオリゲネスは神の善性をフィランスロピアと捉え、神は神(=フィランスロピア)であるから受肉したと反論する。さらに四世紀ユリアヌス帝は、キリスト教の興隆は貧者への愛(フィロプトキア=フィンラスロピア)の実践の故であるとキリスト教批判を展開した。そこでこのフィロプトキアについて大バシレイオスが建てた救貧施設に関するナジアンゾスのグレゴリオスの著作をもとに考察し、救貧の実践が「キリストの模倣」と捉えられることを確認する。キリスト教批判を通して、神のフィランスロピアとその模倣としてのキリスト者のフィランスロピアというものが迫害、受肉、救貧において展開し、これらが神学的にも実践的にもキリスト教形成の一翼を担っていたのである。
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(1333K)
現代キリスト教思想と宗教批判 : 合理性の問題を中心に(<特集>宗教批判の諸相)
芦名 定道
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 449-471
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_449
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近代以降、キリスト教思想は近代合理主義との関わりの中で展開されてきた。キリスト教思想にとって大問題であったのは、啓蒙的理性によって提起された宗教批判であり、その批判の主なる担い手となったのは、実証主義的な近代科学であった。とくに、ダーウィンの進化論は、一九世紀における「科学と宗教の対立図式」-一方における無神論的自然主義と他方における創造科学論との間に典型的に見られる対立状況-の成立を促すことによって、現代の「科学と宗教の関係論」の主要な規定要因となっている。本論文では、リチャード・ドーキンスの宗教批判を手掛かりに、科学と宗教の対立図式において前提とされる合理性概念(狭い合理性概念=証拠主義的合理性)の解明が試みられる。対立図式の克服は、この狭い合理性概念を拡張することによって可能になるのであり、ここに現代キリスト教の思想的課題が見いだされるのである。
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(1429K)
キリスト教再構築の可能性を求めて(<特集>宗教批判の諸相)
新免 貢
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 473-496
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_473
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本稿では、現実批判を伴う宗教批判を、キリスト教再構築の水準を追求する試みとして展開する。その際、「初めに多様性ありき」を出発点として、正典諸文書に加えて、種々様々な外典文書群に関する研究から得られる重要な洞察と知見を適用する方法が有効である。しかしながら、従来から狭量で不寛容とされてきた福音派またはファンダメンタルなキリスト教とは袂を分かつ自覚に立つリベラル派の間においてさえ、『マリアによる福音書』や『ユダの福音書』などの話題の初期キリスト教文書に関する最新の批評学的成果は必ずしも好意的に受け入れられているわけではない。というのは、伝統的なキリスト教理解や枠組みが根幹から揺さぶられるのではないかと危ぶまれているからである。今、聖職者の「沈黙の共謀」に加担することなく、市民と専門家との対等な対話を通して、時代に対応した宗教知識の展開能力(Religious Literacy)が養われる場の提供が急務であろう。
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(1644K)
親鸞浄土教再解釈の一視座 : 宗教多元時代における浄土教の脱構築(<特集>宗教批判の諸相)
武田 龍精
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 497-522
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_497
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諸宗教の多元的状況と宗教的真理証言の相対化という現代的状況のコンテキストのなかで、親鸞が開顕した「浄土真宗」を脱構築する。親鸞は激動の歴史的状況のなかで、鮮明にうちだされた、阿弥陀仏本願の絶対他力による一切衆生のさとりへの救済を根本目的とする浄土仏教思想を「浄土真宗」(宗派での意味ではない)として位置せしめた。現代、「浄土真宗」の真実性を論証する真仮偽判が根本的に問い直されなければならない。さらに、そのような状況に応答せんとするとき、みずからを如何に変革して行かなければならないか、深刻な問いにわれわれ親鸞浄土教者は直面している。本小論は、ヒックの宗教多元主義を吟味しつつ、親鸞浄土教が如何に応答することが可能か、ひとつの方向性を示唆しようとすることを目的とする。さらにカウフマンが提唱した多元主義的真理概念を参照しつつ、最後に一層ラディカルな多元主義的基準を私見として提示した。
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(1577K)
スリランカにおける仏教とキリスト教の歴史的対論 : 「パーナドゥラー論争」の意義(<特集>宗教批判の諸相)
釈 悟震
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 523-546
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_523
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スリランカ仏教は、アショーカ王の時代以来の長い歴史を有する。しかし、この長い同国の仏教の歴史は、決して平坦ではなかった。一六世紀以降のヨーロッパ人によるスリランカ支配は、必然的にキリスト教の布教、とりもなおさず仏教への圧迫さらに弾圧となって現われた。特にイギリスの植民地支配時代、スリランカの仏教は、存亡の危機に直面した。その時、仏教僧侶と二人のキリスト教の牧師との間に、激しい教理論争が繰り広げられた。その結果は仏教が勝利したとされるが、このことがスリランカ仏教復興の原動力となった。特に、仏教の近代化やその復興に功績の大きかったオールコット大佐が、仏教の支援者となったのもこの討論の結果である。そして、彼らの仏教復興運動は、全世界に波及しインドや日本の復興や近代化にも影響を与えた。一九世紀のスリランカの田舎で行われた仏教とキリスト教の討論は、仏教の近代にとって看過できない大きな意味を有するものであった。しかし、この討論についての学術的研究は、殆どなされていない。本稿では、この忘れ去られた仏教の近代化の出発点ともなった討論とその意義について検討する。
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背教か改革か : イスラームにおける宗教批判のかたち(<特集>宗教批判の諸相)
塩尻 和子
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 547-570
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_547
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今日、過激なイスラーム復興思想を支持する人びとの間から、「イスラームの政府」を求める声が強まってきている。彼らはイスラーム主義が今日のイスラーム国家の退廃と停滞を治療してくれ、正義を実現してくれる唯一の「治療薬」であると主張する。彼らが運動の根拠とする「統治権は神にのみある」というスローガンは、自由な市民社会の構築を意図する人びとを竦ませる力をもつ標語であるが、これに対して、現代エジプトの思想家ムハンマド・サイード・アル=アシュマーウィーは身の危険を顧みず果敢に取り組み、公然と反論を表明してきた。彼の思想は、アズハルのウラマーたちからも「背教」的思想であるとして非難され攻撃されている。しかし、聖典やハディースに依拠しながら、歴史的コンテキストに基づいて展開される彼のカリフ制批判や政教分離議論には、近代的社会の形成に不可欠なリベラルな思想がみられる。アシュマーウィーの思想は、最近、エジプトで顕著になってきている啓蒙主義的な思想活動においても何らかの役割を果たすことが注目される。
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民間信仰における信仰と外部性 : 民俗調査からの再考(<特集>宗教批判の諸相)
中西 裕二
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 571-592
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_571
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本論は、民間信仰における信仰の問題を、その民俗的枠組みではなくその外部との関係性、言い換えれば権力という枠組みに再配置し理解する方法を探るものである。日本民俗学においては、民間信仰は民俗社会という閉じた共同体の中で、祭祀対象とその担い手の間で形成されるとみる傾向がある。そこには、その宗教的枠組みと外部との関係性、その権力関係が看過されている。本論では、北部九州の粥占という儀礼と願の概念を再検討し、この正統性を保証する外部性を考慮せずこれらを理解することが困難である点を示す。この種の外部性の排除の根底には、近代という制度に組み込まれ自明視された民俗/宗教の区分が存在しており、その脱構築こそが今後の民俗文化研究に必要であると思われる。
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岩田靖夫著, 『三人の求道者-ソクラテス・一遍・レヴィナス-』, 長崎純心レクチャーズ第九回, 創文社, 二〇〇六年一〇月三一日刊, B6判, ix+一七二頁, 二二〇〇円+税
末木 文美士
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 593-599
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
DOI
https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_593
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末木文美士著, 『他者/死者/私-哲学と宗教のレッスン-』, 岩波書店, 二〇〇七年五月二九日刊, 四六判, v+二四一頁, 二八〇〇円+税
杉村 靖彦
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 600-606
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
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https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_600
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小池靖著, 『セラピー文化の社会学-ネットワークビジネス・自己啓発・トラウマ-』, 勁草書房, 二〇〇七年八月三〇日刊, 四六判, xi+二二二+xviii頁, 二二〇〇円+税
山中 弘
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 607-614
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
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https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_607
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渡辺雅子著, 『現代日本新宗教論-入信過程と自己形成の視点から-』, 御茶の水書房, 二〇〇七年三月三〇日刊, 菊判, xi+四七二+xviii頁, 六八〇〇円+税
伊藤 雅之
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 614-620
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
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https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_614
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井上寛司著, 『日本の神社と「神道」』, 校倉書房, 二〇〇六年一二月二〇日刊, 四六判, 四〇六頁, 三八〇〇円+税
品川 知彦
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 621-626
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
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https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_621
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阿部年晴・小田亮・近藤英俊編, 『呪術化するモダニティ-現代アフリカの宗教的実践から-』, 風響社, 二〇〇七年五月三〇日刊, A5判, 四〇四頁 六〇〇〇円+税
東 賢太朗
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 626-633
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
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https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_626
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野村伸一編著, 『東アジアの祭祀伝承と女性救済-目連救母と芸能の諸相-』, 風響社, 二〇〇七年八月三〇日刊, A5判, 五二四頁, 七二〇〇円+税
福島 邦夫
原稿種別: 本文
2008 年82 巻2 号 p. 633-638
発行日: 2008/09/30
公開日: 2017/07/14
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