宗教研究
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83 巻, 2 号
宗教と倫理
選択された号の論文の21件中1~21を表示しています
  • 編集委員会
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. i-ii
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • 池澤 優
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 289-312
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本稿では中国における生命倫理の言説を対象として、その中に広い意味での宗教性(特定の人間観と世界観)が不可避的に内包されていることを論じる。今まで西洋や日本で提出された生命倫理の主張も、特定の人間観と世界観を前提にしているのであって、中国における生命倫理も基本的には同じである。ただ、中国の生命倫理においては、人間を社会全体の中に位置づけられた存在と規定し、そこから人間の尊厳と責務を演繹するという論理を共有しつつも、論者によって社会全体というものが指し示す内容は異なるために、主張のバリエーションが生じると言える。この中国的生命倫理の特微と言えるものが、伝統文化とどのような関係にあるのかは明言できないものの、それは現代中国における宗教性を表すものと認められる。
  • 稲垣 久和
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 313-338
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    全体は「宗教と社会倫理の学問的方法論」、「宗教は幸福な社会にどう資するか」、「賀川豊彦の宗教倫理と宗教認識論」に分かれる。「宗教と社会倫理」を学問的かつ実践的に扱うために、従来の宗教社会学の方法論ではなく、創発的解釈学と呼ばれる方法論を打ち出す。これは科学と宗教を実在論として意味づける哲学的立場である。次に功利主義倫理の幸福概念は市場主義に行き着かざるを得ないことを示し、これを克服するためにR・E・グーディンの実証的な「脱生産主義モデル」を援用しつつ、労働市場にすべてのエネルギーを吸い取られないで「自由になる時間」を増やし環境配慮型の幸福な社会の形成と宗教倫理との関係を示す。日本でこの方面の先駆的働きをした賀川豊彦を取り上げ、その友愛のスピリチュアリティーと協同組合運動から、連帯による市民社会形成のモデルを示す。今後、儒教の「仁」、仏教の「慈悲」、キリスト教の「隣人愛」が市民社会形成のエートスとなるべきことを提言する。
  • 伊原木 大祐
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 339-362
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    神義論をめぐる現代的論争は、J・L・マッキーによって提示された「悪の論理的問題」をいかに克服するかという課題から始まった。しかし、そこから出された対案の多くは、「悪の情動的問題」に対する有効な解決法とはなりえていない。本論文は、とくに感情面を重視した応答の一つとして、ジョン・K・ロスによる「抗議の神義論(反-神義論)」に注目する。ロスの(反)神義論は、ヴィーゼルやルーベンスタインと共にアウシュヴィッツ以降の時代状況を強く意識している点で、数あるキリスト教神義論の中でも独自なスタンスを保っている。また、その議論は、悪における「正当化しえないもの」の要素に注目している点で、エマニュエル・レヴィナスらの現代哲学的位相とも深い部分で接している。この点を確認した後、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いたイワン・カラマーゾフの「反逆」を分析することで、ロスの議論を宗教哲学的な観点から補完する。
  • 岡田 真美子
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 363-384
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本研究の目的は、現代の環境倫理が直面せざるを得ない困難に立ち向かう際に宗教的なリソースがどのような仕方で持ち出されたかを検討することを通して、現代に生きる宗教的環境倫理を論じ、それによって宗教を勘定に入れた環境倫理の重要性を示すことにある。そのためにまず本論で用いる「倫理」「環境倫理」の意味を明らかにし、ついでグローバルな環境問題に対して最も有効であるように思われる公けの政策や国際協力がもっている限界と、実効性のない精神主義であるとして軽視される傾向のある宗教的倫理の持つ意義について指摘したのち、実際に宗教(者)がリードした環境保護活動を題材とし、環境活動を支えた宗教的倫理とそれが果たした役割を論じた。その中で、宗教を通じて伝えられてきた祖先たちの自然との関わり合いかた、環境とのコミュニケーションのありかたを辛抱強く学び、実践することが内在的な価値基準(倫理)の転換を起こし、行動原理の変化を起こすことを示した。
  • 葛西 賢太
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 385-408
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    オックスフォードグループと呼ばれた道徳改革運動の宗教的意義について考察する。この運動は道徳再武装と改称し、二〇世紀前半から半ばにかけて、欧米以外の諸国も含めた国際的な交流の機会を提供、諸国の政治・経済・文化に関わる、日本も含むエリートたちに熱心に支持された。支持の背景には宗教運動としての諸側面もあった。この論文では、神にゆだねること(Surrender)と、祈りの中で神からメッセージを受けるお導き(Guidance)という二つの実践について述べる。これら二つの実践は、参加者の自己と宗教・道徳伝統との間の不一致を整理し、両者を再接続させるものである。実践によって人生の変革(Life Change)を体験した人々は、宗教活動にも、またそれを応用した上述の国際交流にも、諸職業活動にも積極的に参与した。
  • 金子 昭
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 409-430
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    人間は、他なる者との人格的な交わりとしての「対話」において存在し、そこに人間性に基づく人間学humanology,Humanologieが成立する。対話は、対話的原理dia-logosより成り立つ。この原理は、相互に分かち合う真理であり、関係概念から出発する人間存在のロゴスである。「我-汝」の対話的関係性は両者の人格的な共鳴を持つ「対」概念であるが、ここには逆説と創造の契機が存在する。さらにまた、対話的倫理は宗教的人間学としての展開可能性を有している。この人間学においては、宗教は対話という回路を発見して倫理に目覚め、倫理はその本質的意義たる対話を通じて宗教に至る。倫理的・宗教的人間学(ヒューマノロジー)は、この対話的原理により従来の人間学(アンソロポロジー)を踏み越えた逆説的・創造的人間理解をもたらすものである。
  • 金 承哲
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 431-451
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    「クローン羊ドリー」をめぐる論争が示すように、遺伝子工学を含む昨今の生命科学は、人間の自己についての理解に新たな問いを投げかけ、それによって、自己と他者の間の境界を始め、人間と自然の間の境界、さらには、人間と神の間の境界についての既存の観念は大きく揺らいでいる。特に、神による「創造の秩序」を実在理解の基本とするキリスト教世界においては、生命科学が提起する問題は極めて深刻に受けとめられている。倫理とはこうした「境界」をめぐる議論であるということを考えてみると、生命工学的試みが倫理的問いを伴うことは当然であろう。キリスト教においては、こうした倫理的問題が「神を演じる」(Paying God)という観念の下で議論される。本稿は、生命科学と倫理の関係性と、生命科学によってもたらされた新たな自己理解について論じることによって、生命科学によってもたらされる自己理解の倫理的意味について考察する。
  • 櫻井 義秀
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 453-478
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本稿では、宗教と倫理が緊張関係にある事例としてカルト問題を取り上げ、教勢拡大中のキリスト教教会や宗教団体にはカルトにも共通する特徴があることを指摘した。宣教体制に機能特化した教団は、教化力・組織力・指導力を高めるべく<指導-被指導>関係を軸とした権威主義的体制を構築する。そこにおいて、「教会のカルト化」「宗教団体のカルト化」として批判される信徒への抑圧・搾取的行為や反社会的行動が見られることがある。宗教組織や宗教運動に固有の逸脱を批判してきたものは、現実の宗教団体に対して外郭的秩序として機能する倫理や法ではなく、カルトに巻き込まれた当事者や支援者が特定教団の活動を社会問題として批判・告発してきた活動であった。具体的な問題を解決する過程において構築される社会倫理こそが、宗教とカルトを分かつものが何であるか、そして、宗教と倫理をめぐる緊張とはいかなるものであるかを明らかにしてくれるだろう。
  • 関根 清三
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 479-501
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    現代は宗教と倫理の相剋の時代である。しかしこの相剋は必ずしも現代固有の現象ではなく、宗教の側からは古代のイサク献供物語、倫理の側からはアリストテレスの倫理学以来、繰り返し指摘されて来た。後者についてはカント、和辻らの批判があり、特に和辻は空の哲学から倫理の宗教的基礎について語った。しかし和辻自身はその構想を貫徹したとは言えない。また前者については、キルケゴール、レヴィナス、西田幾多郎らの解釈が注目される。特に西田の絶対矛盾的自己同一的神理解は、この物語の新たな読解のために示唆を与える。これらを踏まえ、あわせティリッヒの思索を顧みる時、我々は「宗教」「倫理」両概念ともに再解釈することを迫られる。その結果、宗教とは主観客観図式を超えた無制約的なものと関わることであり、倫理とは人格の統合を促す形で他者との共生を指示する理路であると再定義される。こう理解し直す時、両者相剋の克服の方途もまた、見えて来るに違いない。
  • 高田 信良
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 503-524
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    <仏教には、倫理、とりわけ、社会倫理が欠如している>との批判がある。倫理が、なんらかの超越的実在に規定されるような道徳・社会的規範、あるいは、社会形成力を持つ規範などと理解される場合には、たしかに、そうであろう。仏教は、「出世間」の宗教であり、「世間」(社会生活)で価値形成的にはたらく行為規範を教えるものではないからである。現代のグローバル化状況における<宗教多元>は<価値多元><倫理多元>でもある。宗教が倫理的生の周縁部へと追いやられてしまっているだけではない。人間的な存在欲求の直接的なぶつかりあいのなかで倫理不在でもある。個々の宗教倫理、市民社会の倫理などの混在状況において、各々は、互いに限定的なものであり、かつ、独自なものであることを際立たせ合っている。<宗教と倫理>(の異同/関係)が関心事とされることにより、各々の宗教における実践(宗教倫理)のアイデンティティが問われてくる。仏教における実践性は、仏教徒の行う世俗倫理にあるのではなく、<仏教徒になる>ところにあるのではないだろうか。「念仏の教え」に焦点を当てつつ考えてみたい。
  • 谷 隆一郎
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 525-549
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    人間の自然・本性(ピュシス)はヘブライ・キリスト教の伝統にあって、すでに完結したものではなくて、無限なる神性(善性)との結合へとどこまでも開かれたものであった。それゆえ、「魂=神的なもの」を身体から離れて自存するものと看做す何らかグノーシス主義的な見方も、逆にまた、何であれ物体的要素に魂や精神を還元するような唯物的自然科学的な見方も、多分に人間把握、自己把握の虚偽を孕んだものとなろう。そこで、人間本性に与えられた可能性の開花・成就の道を問いゆくとき、身体ないし身体性とは人間本性の変容を担うものとして見出されてくる。そして身体の聖化とは、そのより善き変容を、またいわゆる神化(神的生命への与り)を指し示すのだ。拙稿は、こうした身体の聖化という事態の意味と問題射程を、主として東方・ギリシア教父の伝統の集大成者と目される証聖者マクシモス(七世紀)の文脈に即して、少しく明らかにしようとするものである。それは、およそ宗教哲学的探究の基本のかたちを見定めるための一助ともなろう。
  • 寺戸 淳子
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 551-575
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    地縁的・職能的結合関係が解体された革命後のフランスでは、貧困層の出現という形で社会問題が発生した。人権に基づく公的扶助や連帯主義による解決を目指す共和派に対し、カトリック世界では労働組合運動を中心とする男性による社会的カトリシズムと、女性が行う伝統的慈善による対処が試みられた。そのような動きを背景に貧困層の社会統合を目指して始まったルルド巡礼の現場では、徐々に社会的カトリシズムがもつ討議的性格と慈善がもつ党派的性格が弱まり、「他者への配慮」を優先する「傷病者の現れの空間」が確立されていった。本稿では、「正義と権利」を重視する男性的倫理的態度のみを評価する道徳理論に対し、「配慮と責任」を重視する女性的倫理的態度の復権を唱えるギリガンの理論を参照しながら、ルルドの傷病者支援活動を通して生まれた「ディスポニーブル」という「他者に主導権を預けた行動規範」の、意義と可能性を考察する。
  • 萩原 修子
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 577-600
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    不知火海沿岸の人々は水俣病事件によって底知れぬ苦しみを強いられた。事件の公式確認後、すでに五〇年を超す歳月が流れたが、事件が人々の心身に刻んだ爪痕は今なお深い。事件によって影響を受けた人々に共通するのは、倫理的困難への直面である。その超克を模索する過程において、当事者あるいは支援者とともに、実に豊かな思想が紡ぎだされてきた。本稿は「本願の会」という患者有志によるゆるやかな会が湧出しつづける思想について考察を試みるものである。会の主要メンバーによる著作から、彼らの倫理的困難を超克しようとする実践を、今日の倫理と宗教の微妙な関係を示す一例として、分析したい。
  • 保坂 俊司
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 601-625
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    小論では、まずインドにおける宗教と倫理の関係性を論ずる前に、「倫理」という言葉の意味背景を明らかにし、日本語の倫理という言葉が持つ問題点を明らかにした。その後、インド中世において独自の思想で教団を創設したナーナクの教えを中心に、その宗教教理が、シク教徒の日常倫理とどの様にリンクし、現実生活においてシク教徒がそれを如何に実践し、現実世界において独自性を発揮してきたかを明らかにした。特に、シク教徒の合理的で、現実主義的な教えは、世俗生活における行動規範に強く生かされ、シク教徒はインドの近代化に大きく貢献をしてきたのである。そこには、シク教の宗教的な理想を現世において実践しようとする近代ヨーロッパとは異なる形であるが、宗教と倫理の一致の思想がある。
  • 森岡 正芳
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 627-647
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    自然存在および文化社会的存在の二重性のなかで人は、葛藤を抱えてきた。心理療法はセラピストとクライエントが実際に会って話すということを基本にしている。他者との会話が感情の自己調整を可能にしていくその基盤については、まだわからないことが多い。小論では、感情のセラピーの源泉としてスピノザの『エチカ』を参照し、他者との応答的対話がもたらす自己回復へのプロセスを探ろうと試みた。『エチカ』第5部の定理によると、感情に明晰判明たる観念を形成すると、人は感情による受動性にさらされた状態から能動存在へと転換する。ここに主体性回復への治癒機転を求めたい。スピノザは身体の変様から感情を定義する。感情に従属する(受動)のではなく、理性に導かれる(能動)自己認識をもとに、自己保存の力能すなわちコナトゥスとつながる道筋がセラピーの基盤であることが示される。セラピーにおいて他者の応答が不可欠なのは、コナトゥスが限定され、現実の力になることに関わっている。以上についてセラピーの実際場面や心理学者牧康夫の自己治癒への道筋を例に検討を行った。
  • 諸岡 道比古
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 649-671
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    宗教が社会に受け入れられている限り、その宗教は独自の営みをその社会の中で続けることができる。けれども、宗教がひとたび社会の秩序や規範を批判したり犯したりするようになると、宗教と社会との間に軋轢が生じる。その軋轢は、宗教上の振る舞い方と世俗社会のなかで考えられているあるべき振る舞い方とが齟齬することに起因する。いうなれば、宗教的善悪と道徳的善悪との乖離とその優先順位の付け方に起因する問題である。その解決には、宗教的善悪と道徳的善悪のいずれか一方を優先させる、あるいは両者を一致させる必要がある。ドイツ観念論思想に連なる思想家おいて、これらの問題がいかに考えられているかを、カント、フィヒテそしてシェリングの思索から振り返り、三者三様のその解決法を提示することが本論の意図である。
  • 柳橋 博之
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 673-696
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    スンナ派正統四法学派の一つハナフィー派の学祖アブー・ハニーファは、その方法論上の問題、とくにハディース(預言者伝承)を軽視したとみなされたことから、伝承家による攻撃にさらされた。ハナフィー派は、この攻撃に対抗し、また啓示に基づくイスラーム法の学派としての正統性を主張する目的から、アブー・ハニーファの美徳や偉業を伝える「美徳伝」を九世紀末ないし十世紀初頭から編纂し始めた。本稿では、代表的な美徳伝の一つであるマッキー『美徳伝』の内容をごく大まかに紹介するとともに、初期の美徳伝の編纂過程を、もっぱら伝達履歴の分析を通じて推測した。その結果、美徳伝の編纂が始まった第四ととくに五世代の伝達者に至って、ハディース学の原則に従って、意識的に伝達者の資質(信頼度)を基準として言い伝えの取捨選択を行い始めたという結論を得た。
  • 勝村 弘也
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 697-704
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • 関沢 まゆみ
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 704-709
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • 山口 正博
    原稿種別: 本文
    2009 年 83 巻 2 号 p. 709-715
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
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