宗教研究
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91 巻, 1 号
選択された号の論文の16件中1~16を表示しています
論文
  • タイナト版「エサルハドン王位継承誓約文書」発見を受けて
    髙橋 優子
    2017 年 91 巻 1 号 p. 1-23
    発行日: 2017/06/30
    公開日: 2017/09/15
    ジャーナル フリー

    「ヨシヤ改革」は、元来旧約聖書学の唯一の定点を成す重要な出来事である。とくに他の理論的支柱をほとんど失ってしまった現在の旧約学にとっては、最後の砦と言っても過言ではない。しかしこの出来事についても解釈は一致していない。ところが近年のタイナト版「エサルハドン王位継承誓約文書」の発見・出版によって、ヨシヤ改革の理解も大きな修正を受ける可能性が出てきた。もちろんタイナト版の示唆をどう捉えるかにより、大きな差が出てくるであろうが、いずれにせよ、タイナト版の存在を無視した議論はもはや成立しない状況である。本稿ではヨシヤ改革研究史に限って、現在喫緊の要請であると思われる研究史の新たな整理を試みた。おそらくマナセ王がエルサレムに持ち帰ったESODが宮廷役人やエルサレム神殿祭司に知られており、後のヨシヤ改革に独特の方法でその知識を利用したとすれば、ヨシヤ改革の姿がより明確に浮かびあがってくることになる。

  • 岡田 聡
    2017 年 91 巻 1 号 p. 25-45
    発行日: 2017/06/30
    公開日: 2017/09/15
    ジャーナル フリー

    本論では、カール・バルトの「忘れられた弟」、ハインリヒ・バルトを取り上げる。第二節で「実存の哲学」と『実存の哲学の概説』、『実存の認識』を主に用いて、ハインリヒ・バルトにおける「実存の哲学」を検討する。ついで第三節で「真正の実存主義と誤った実存主義」および「信仰の真理へと関わる実存の哲学の根本諸性格」を主に用いて、ハインリヒ・バルトにおける哲学と信仰の関係を考察する。ハインリヒ・バルトによれば、信仰が「真理においてある」のに対して、哲学はその真理を「追考する」。聖書の言葉が直接的なリアリティを持っているのに対して、哲学の概念はその追考にすぎない。「キリストにおける神の現象を哲学は発見しなかった」。すなわち「直接に語りかけるアクチュアリティの点で、また、投げ掛けられた問いと差し出された答えの徹底的な鋭さの点で」、哲学に対して信仰は優位に立っているのである。最後に第四節でハインリヒ・バルトとカール・ヤスパースの関係を明らかにする。

  • 田中 和夫
    2017 年 91 巻 1 号 p. 47-70
    発行日: 2017/06/30
    公開日: 2017/09/15
    ジャーナル フリー

    法然は『選択集』が曲解されることを恐れて、これを秘匿したという。それは、この書が論理的に証明できない宗教体験に基づく真理(本願の真実性)を公理として展開したもので、形式論理の上からでは理解できないものだからである。結果、多数の門弟の内、僅か六名しか書写を許さなかったのである。このことから、この者達は本願が真実であることを実感したことが分かるのであるが、その宗教体験とは何であるか。これを正面から論じたものはないが、法然の念仏を考えるとき重要な問題を提起するものと考える。

    この問題を解く鍵は、親鸞が『選択集』を書写したとき、法然が与えた文にある。なぜなら、自らの肖像画に書く文は、本願の真実に基づく自らの教えを象徴するものであり、また、書写を許された親鸞の宗教体験を追認するものだからである。本論では、この文を手がかりに、『選択集』書写を認める要因となる宗教体験を明らかにするものである。

  • 津軽のカミサマを事例として
    村上 晶
    2017 年 91 巻 1 号 p. 71-95
    発行日: 2017/06/30
    公開日: 2017/09/15
    ジャーナル フリー

    本稿はカミサマと呼ばれる津軽地方の巫者の語りと実践を対象に、それらがどのように形作られるのか、そしてなぜ妥当なものとして依頼者に受け入れられているのかを、知識の問題に焦点をあてて考察するものである。その際、特に社寺についての言及に注目する。三名のカミサマの事例からは、神的な事柄にかかわる連想の起点として、実践の正当性を支える根拠として、神仏に関する種々の発想(神的発想群)に具体的な形を与える場として、それぞれ社寺についての言及が役割を果たしていることを明らかにする。カミサマの語りと実践は、地域の人々によって分有されている超越的次元に関する知識や発想を組み合わせることで形成される。そのため、カミサマは日常的な知からまったく自由であることはありえないが、知識の即興的な構成という面でその個性が反映される余地がある。カミサマとは社会に流布した超越的次元についてのイディオムに慣れ親しみ、それを依頼者の期待に沿って巧みに構成する能力を身に着けた存在であるといえるだろう。

  • イマーム派内での評価を巡って
    平野 貴大
    2017 年 91 巻 1 号 p. 97-120
    発行日: 2017/06/30
    公開日: 2017/09/15
    ジャーナル フリー

    本稿は九世紀後半から一〇世紀初頭にかけて活動したイマーム派学者のフラート・イブン・イブラーヒーム・クーフィーのタフスィール(クルアーン解釈書)におけるザイド派的側面の考察を主題とする。フラートの著作の中ではイマーム派的ハディースのみならず、シーア派諸派的ハディースも多く引用されている。シーア派諸派的ハディースの中でもザイド派的ハディースは数が多く、その内容がイマーム派の教義と相いれないものもある。本稿では、まず、初期にフラートがイマーム派内で評価を受けていなかった要因を分析し、その主たる要因が彼のザイド派的傾向であることを示す。次に、フラートのイマーム派内での評価の変遷を明らかにする。最後に、フラートのザイド派的側面の特徴を明らかにする。上記の考察を通じて、初期のイマーム派文献の中にはシーア派諸派の伝承が混入しており、イマーム派と他派との境界が後世と比べて曖昧であったことを示す。

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