中華人民共和国初期において鉄鋼業が経済建設の枢要な位置にあったことは周知のとおりであるが,それに先立つ戦後国民政府期(1945〜1949年)においても鉄鋼業の建設が叫ばれていたことは,あまり知られていない。本稿では当時の鉄鋼業に関し,以下の3点から考察する。第1に,戦時期からの計画立案過程を建設立地の観点からみていく。第2に,戦後に計画が具体化される過程について,資金配分および対外関係の点からみていく。第3に,実際の建設過程について,各地の鉄鋼業の復興状況を含めて考察する。以上の分析により,国民政府は華中の大冶鉄廠の復興を重視していたことが明らかとなった。それは,戦後の開放体制に即応するために,経済性を重視しようという政策担当者の意向によるものであった。しかし,その復興に必要とされたアメリカの借款および日本の賠償物資の獲得が不可能となるなかで,大冶の復興もまた中断を余儀なくされる。そのため,国民政府は東北・華北の残存設備の応急的な復旧を進めるが,同地域が早期に共産軍の支配下に陥ることにより,政権内の鉄鋼業を喪失する結果を招いたといえる。
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