史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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125 巻, 10 号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 2016 年 125 巻 10 号 p. cover1-
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 125 巻 10 号 p. cover2-
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
  • 「アングル人とサクソン人の王国」におけるマーシア人の集会
    内川 勇太
    2016 年 125 巻 10 号 p. 1-41
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
    本稿は、主に集会で出された文書を用いて、「アングル人とサクソン人の王国」(c. 880-927)におけるマーシア人の集会を考察し、イングランドの政治的統合過程の解明を目指した。この時期のマーシアはウェセックス王権の支配下に置かれ、新たな政体の一部に統合されたと考えられているが、その統治の実態が具体的に考察されることはなかった。そこで本稿は初期中世西ヨーロッパの統治の中心である集会に着目して、当該時期のマーシアの統治実態を明らかにし、統合を促進した諸要因を探った。
    第一章では、マーシア人の集会の、開催地、開催の時(時期・期間・頻度)、参加者、そこで扱われた事柄とその処理の過程を網羅的に調査し、当時のマーシアが集会を通じてそれ以前のマーシア王国と同様に統治されていたことを明らかにした。
    第二章では、この時期のウェセックス王権のマーシアへの伸長を集会の文脈で捉え直した。その結果、ウェセックス王権はマーシア人の集会に選択的・部分的に関与することによって自らの利害を追求し、マーシアへ王権を浸透させていったことが明らかとなった。
    マーシアとウェセックスで個別に開催された「アングル人とサクソン人の王国」の集会はのちの「イングランド人の王国」(927-)における王国集会とは異なって、マーシアとウェセックスの聖俗貴顕が交流し、イングランドの政治的統合を促進した場ではなかった。
    第三章では、マーシアの聖俗貴顕が、チャータを通じてウェセックス王権を受け入れたこと、集会ではなく教会会議、軍事遠征、宮廷においてウェセックスの王と貴顕との関係を構築し、王国を越えた利害を形成したことを指摘し、それがイングランドの政治的統合のより重要な駆動力となったことを示した。
    2つの集会を持つ「アングル人とサクソン人の王国」は、未だ統合の途上にあったウェスト=サクソン人とマーシア人という2つの民を統治するにふさわしい政体であった。
  • 水野広徳の論説を中心に
    鳥羽 厚郎
    2016 年 125 巻 10 号 p. 42-67
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/10/10
    ジャーナル フリー
    本稿は、戦間期日本における「反骨の平和主義者」として著名な海軍大佐水野広徳の「平和論」を再検討する。
    先行研究では、水野が第一次大戦の視察を契機として、「平和主義者」へと転身し、その後の水野の思想は、日本国憲法の源流の一つであるとして高く評価する見解が主流を占めてきた。しかし、「平和主義者」への転身後における水野の思想分析をほとんど行なわないまま、水野の思想を戦後と直接的に接続させることには問題がある。また、水野の論説に現れる国家自衛権の肯定や、合理的な軍備のあり方の模索といった事例は、どのように「平和主義」へ接続しうるのか、という疑問が残る。
    そこで、本稿では、戦間期の水野の論説を詳細に分析することで、水野が「総力戦論者」と「平和主義者」という二つの側面を持ち、両者を結合させるものとして「戦争は利益にならない」とする「合理主義」を基底とし、「国力」という概念を通して戦争と平和を見通す「合理主義的平和論者」であるということを論証した。
    水野の「平和論」は、独自な「平和主義」と「総力戦論」の相互補完関係によって成立する論理であった。水野はこの特性を利用し、「総力戦」対応策をそのまま「平和論」に接続させた。しかし、「世界の大勢」という流動的な事象に立脚してしまったが故に、反動に対抗する力を失った。満州事変以後、国家自衛の名の下に軍拡が肯定され、水野の「平和論」は依って立つ基盤を失ったのである。
    しかし、水野研究は決して無意味ではない。水野は、一九二〇年代を通して自らの「平和論」を、単なる国家間の問題から個人や社会の問題へと発展させ、最終的には民族自決論へ接続させていった。それは、一九二〇年代の平和思想が持つ国際協調主義と反植民地闘争の両者を統一的に把握する一助となり得るのである。
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